8.忘れられないキスをして




8.忘れられないキスをして(張角)



――――風が冷たすぎる。
 鉄の酸(す)い臭いを孕んだ風だった。

 木の葉を拾い上げ拐かすその風。同時にこの地に充満する負も、泣き叫ぶ魂も、何処かへ連れ去ってしまえば良いのに。

 枝葉の擦れる音はまるで木々の抗議だ。
 この地を汚すなと、自分達に怒鳴り付けているかのような……。

 肌を刺す風に袖を、髪を踊らせながら、幽谷は暗闇を一人歩いた。
 鮮血を彷彿とさせる赤と、深海のように深く冷えきった青の瞳は真っ直ぐ前を見据え、揺らぐことが無い。
 目の前を横切った獣すら、捉えない。

 彼女の歩く姿を獣達が遠巻きに眺めている。平時であれば無条件にじゃれついてくる筈の彼らは、今は畏怖の眼差しを向けて彼女の視界に入り込むことを拒んだ。

 時折縋るように鳴く者が在るが、幽谷は関心すら寄せなかった。
 自身が望む姿以外の一切を己の意識から徹底的に隔絶した。

 幽谷が今求める姿はたった一人の男。
 幽谷を拾い、存在する意味を与えた唯一無二の絶対的人物。
 幽谷が傍にいたいと心から望んだ異性。

 濃い血臭漂うこの地は、死の気ばかりだ。
 彼の生もまた、途絶えかけている。

 最期は、必ず、お傍に。
 万が一の時、彼は生きろと言った。
 幽谷はこの世を浄化する尊き存在であり、自分と共に死出の旅路を辿ることもあるまいと、彼自身幽谷が《役目》を果たすことを望んだのだった。

 彼が望むのであれば、聞かぬ訳にはいかぬ。
 彼の望みはすなわち己の願いだ。

 けれども――――果たして彼を失って、孤独の中生きていけるのか。
 分からない。
 もう自分は犀家にいた頃とは違うのだ。
 彼の傍で、彼の望みに沿うことこそが、最上の生き甲斐となっていた。

 彼がこの世からいなくなった時。
 その後の自分が、全く想像出来なかった。

 まるで、この夜闇のように何も見えない。
 真っ黒に塗り潰されて、立体も距離も分からなくて。
 ぞわりと全身が粟立った。

 ――――嗚呼、これが《怖い》と言う感情なのかもしれない。
 ならば今の自分は、自分を見る人間達のような怯えた目をしているのだろうか?

 ……ここに誰かいれば確かめられたかもしれないのに。
 詮無いことを思う。

 暗い森から月光に照らされた平野に出ると、折り重なる屍の更に奥へと向かう。この血に充満する血の臭いは森の中よりも濃い。
 屍は徐々に徐々に数を減らし、やがて無くなった。

 それでも、幽谷は歩みを止めなかった。
 歩いて歩いて――――ようやっと見つける。

 地面に横たわる最愛の主人の身体を。ぴくりとも動かない。

 その側に、三人の男女がいた。彼らが、殺したのだろう。

 匕首を片手に三人に近付くと、娘がこちらに気が付いた。
 偃月刀を構える。

 他の二人も同様に得物を構えた。


「四凶か。黄巾賊の中に四凶がいたとはな」

「しきょう……」


 ああ、そう言えば確かに四凶と言われていた。汚らわしい存在であると人から疎まれていたのだった。
 けれど、そんな昔の話など最早どうでも良いことだ。

 三人を無視して、幽谷は虚ろな眼差しを虚空へと向ける彼の傍に両膝をついた。
 そうっと優しく彼の頬を撫でた。


「……来世では、どうかお幸せに」


 そこに自分がいるかは分からないけれど。
 独白した直後、彼の瞳に光が戻る。幽谷を捉えて微かに見開かれた。


「……幽谷。来た、のか」

「最期は必ずお傍にと、申しました故」


 口角を弛めれば、彼の口端がぴくぴくと震えた。笑おうとしても、上手く上がらないのだ。
 幽谷は身体を折って彼にそっと口付けた。……血の味がする。

 彼の手を握って己の胸へと寄せた。


「あなたは、私に生きろと望まれた。生きて、天帝より与えられた役目を果たせと。私の願いはあなたの望みにございますれば、私は生きねばなりません。その四霊としての命を果たさねばなりません。……ですが、あなたのいない私の、想像が出来ないのです。あなたは、私の全てにございました。あなたがおられたからこそ、私は存在出来たのだと思います」


 これからどうすれば良いのか、分かりませぬ。
 そう言うと、彼は目を細めた。


「……我が、名、を」

「……、……張、角様」


 乞われるまま呼べば彼は嬉しそうに笑声を漏らした。しかし口端はまた痙攣するだけだ。もう、表情らしい表情が作れない。


「忘れるな」


 微かな声音で彼は言った。

 幽谷は弛く瞬き、やおら頷いた。


「御意のままに」


 握り締めた手が、徐々に温度を失っていく。
 彼から命が流れ落ちていく。
 ゆっくりと、金の瞳が濁り瞼に隠される――――。


 死んだ。


 彼は死んだ。
 幽谷を置いて。

 胸を締め付けられるような息苦しさに一瞬だけ息を止めて、深呼吸を二度。
 再び、今度は長めに口付けて懐から札を取り出せば、彼の胸に貼り付けた。

 刹那、彼の身体は発火する。

 後ろの三人が顔色を変えたが、幽谷はそれに構わず彼の手を離して彼の遺体の燃える様を、逸らさずに見つめていた。――――骨になるまで。

 燃え尽きると、熱放つ骨を躊躇いも無く掴み上げた。
 嫌な音と嫌な臭いに後ろで引きつった悲鳴が上がった。

 焼ける。

 焼ける。

 けれど遺骨を離しはしない。離してはならない。

 幽谷はゆらりと立ち上がった。
 骨を握り締めたまま歩き出した。その足取りは、しっかりとしていた。


「……っ、ま、待って!」


 三人の横を通り過ぎた後に彼女を呼び止めたのは娘だ。……彼と同じ種族の。

 幽谷は足を止めて肩越しに彼女を振り返った。


「……何でしょうか」

「あ、えと……あなたは、これからどうするの?」

「生きて、役目を果たします。それがあの方の望みでありますれば」

「……天帝より与えられた役目、と言っていたな。どういうことだ」


 三人の中で一番年嵩(としかさ)の青年が目を細めて問う。

 しかし、これについては幽谷は答えなかった。


「あなた方には関わり無きこと故」


 それだけ言って、幽谷は今度こそその場を立ち去った。



 以後、彼女の消息を知る者はいない。



●○●

 生まれて初めての張角。しかし切ない死ネタと言う……。
 ifでもし猫族でなく張角に拾われてたら、という話です。
 本編で張角とほとんど絡んでなかったので思い切って書いたのは良いですが、張角あんまり出てないしキャラが分からないし夢主はちょっと依存性強いみたいですし……取り敢えず、暗いです。滅茶苦茶暗いです。

 最後に消息不明的なこと書いてますが、この後公孫賛に拾われます。脱け殻同然の夢主に、趙雲が過保護に付きまとうんじゃないかなあ……。



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