5.無邪気にキスして




5.無邪気にキスして(曹操)




 彼は幼い頃に、カノジョを《連れて》きた。

 父の気まぐれに付き合わされて虎狩りに出た時のことだ。

 森の中で一人虫の息の虎の子を抱き締めてうずくまっているムスメがいた。
 片目を血塗れの包帯で覆い、あどけない表情を浮かべたカノジョは自分よりも幾らか年下で、虎の子供を守ろうとその身を盾に彼と対峙した。

 誰何(すいか)しても、ムスメは答えない。敵意を露わにしてその場を逃げ出そうとする。
 間者でもないだろうが、父の下らぬ遊戯に付き合わされ鬱憤の溜まっていた彼は、ムスメ共々虎の子を殺してしまおうと持っていた弓に矢を番(つが)えた。

 無情に放った矢は寸陰違わずムスメの右肩口を貫いた。
 ムスメがよろめいたのに、彼は大股に歩み寄って腕を掴み地面にねじ伏せた。
 そして、怪我を負っているのだろう半面を隠す汚らしい包帯を強引に剥がしてやった。

 その間ムスメは悲鳴一つ出さず、ただただ彼の与える仕打ちに耐えんと表情を強ばらせ彼を睨め上げた。

 ムスメのかんばせを見た刹那。
 彼はカノジョに囚われた。

 赤と青の視線が彼の四肢を絡め取り、自由を奪う。

 そう。
 ムスメは自分よりももっと卑しい、《凶兆》そのものであったのだ。



‡‡‡




「幽谷」


 呼ばれ、ゆっくりと瞼を押し上げる。
 いつの間に寝ていたのだろうか、全裸で寝台に横たわっていた幽谷は緩く瞬きを繰り返しゆっくりと身を起こした。

 それに、のし掛かる。


「……曹操殿」


 自分でも驚く程に嗄れた声だ。身体も酷く重い。
 どうしてだろうかと記憶を手繰り、ああ、と納得する。

 昨日は激しかった。それ故のことであった。
 己の咽を押さえ幽谷は自らが曹操と呼んだ青年を見上げた。
 流麗な面差しは、自分をこの部屋に連れ込んだ少年の砌(みぎり)からなんら変わらない。
 切れ長の黒曜の瞳の奥に潜む狂気、そして果ての無い貪欲な願望、嫌悪も、何一つ。

 曹操をじっと見つめていると、ふと彼の顔が近付いた。
 反射的に目を伏せた直後に唇に触れた柔らかな物。昔から何度も重ねた物だ。
 離れると同時に瞼を押し上げると頭をそっと撫でられる。


「お前は卑しい凶兆だ」


 曹操は唐突に、そんなことを呟いた。

 誰に言われるまでもなく、幽谷もそれは自覚している。
 だからこそ、幽谷は育て親の旅人から引き離され曹操にこの部屋へ軟禁されて以降、一度も外の世界に出たことが無い。
 何を言っているのかと彼の次の発言を待てば、曹操は幽谷の右肩口に噛みつく。そこには未だ、曹操の放った矢が貫いた痕がくっきりと残っていた。
 それを何処か満足そうに舐め上げ吸い上げた。

 ぞわりと総身が粟立つ感覚に身体を縮めれば寝台に押し倒された。


「己以上の穢れを知らぬ故に、こうもあどけない――――何も知らぬ無邪気な思考のままなのか」


 幽谷は薄く口を開く。ややあって、閉じた。
 彼は何を言っているのだろうか。
 穢れの具現、四凶を閉じ込め育てたのは他でもない曹操だ。
 何も知らぬは無邪気と言えるが、それは自分自身のような生まれながらの世の穢れには全く当てはまらない。
 彼の言っていることはたまに、意味が分からない。


「意味が、分かりかねますが」

「分からぬか。……いや、そのままで良い。お前は何も知らぬまま、私に飼い殺されて生を終えれば、それで良い」

「ン……」


 左脇腹の痣を撫でられ、鼻から抜けるような掠れた声が漏れる。

 幽谷は曹操の肩に手をやって、小さく押した。
 意味の無い抵抗。形だけの制止。
 幾ら止めたとて曹操が痣への愛撫を止める筈がないとは、とうに分かっている。


「……いつか私はお前を殺すのやもしれぬ」

「左様で、ございますか……っ」


 無いとは言えない可能性だ。
 しかし、幽谷は何の感慨も無く相槌を打つ。どうでも良かった。
 ただ自分を殺した後に曹操がどうなるのか、それが少し気がかりではあるけれども。

 曹操は痣に爪を立てて強く引っ掻いた。白い皮がめくれ、血が滲む。


「だが、私が殺すその時まで、お前は無邪気でいるだろう。お前以上の穢れはこの世の何処にも無いのだからな。私を受け止めてすらあどけないお前のまま、私の手で殺される」


 まぐわっても、まぐわっても。
 幽谷が快楽に溺れ淫らになることも、曹操の暗い本性に引きずられることも無い。ただただ幽谷として、この閉塞した狭い世界の中で雑草のように咲き続ける。誇るでもなく、訴えるでもなく、ただそこに在り続けるだけ。
 それが曹操にとってあどけないということなのだった。

 幽谷をこの年まで育て上げたのは曹操に他ならぬ。
 されども曹操の手で幽谷が染まったものなど、さして多くなかった。

 幽谷はずっと幽谷で。曹操の意に添いながらも、完全に曹操の所有物にはなりきらない。
 あどけないままにそこに在り続け、己よりも汚れた幽谷に執着する曹操を受け入れることがここにいる条件であると、事務的にこなす。

 それに、曹操も空しさを感じぬ筈があるまいに。


「幽谷」

「はい」


 声で求められるから、自ら曹操の唇に己のそれを合わせる。
 目で求められるから、薄く開いた口唇の隙間から自ら舌を忍ばせる。
 曹操が求めるから、自分は彼を受け入れる。ずっと、ずっと。


 けども。


 頭の片隅で、この行為に待ったをかける者が在った。
 それは幽谷の頭をがんがんと殴り、《促す》。何かを促し続ける。幽谷にとって必要な現象を促す。
 心当たりも何も無いのに、頭を殴られている時は胸の奥が焦がれ、焦燥が掻き乱す。

 その自分にも分からぬ現象が起こった時、自分はどうなるのだろう。

 曹操の愛撫を受けながら、幽谷はぼんやりとそんなことを思う。

 けれども、また口付けを乞われ思考を中断する――――……。



●○●

 あれ……何が書きたかったんだっけ。
 狂った話を書こうとして、奇妙な関係が出来上がっちゃってました。
 あれぇ……。



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