3.恋人のキスをして
3.恋人のキスをして(張蘇双)
……一応は、恋人同士。
けども。
未だに敬語で、それらしいことも全くしていなくて――――まるで主従のようだと友人に言われても反論なんて出来やしない。
この関係を苦々しく、もどかしく感じているのは、自分だけなのだろうか?
「……あのさ、幽谷」
「はい、何でしょう。蘇双様」
「……」
畏(かしこ)まった態度を見る度に溜息が出る。
呼び止めておいて呆れたように、少し恨めしそうに見上げてくる蘇双に、幽谷は困惑した。首を傾け、怪訝に眉根を寄せた。
「……蘇双様?」
「それ、止めて」
「はい?」
「その『様』付けと、敬語」
途端、彼女はぴたりと固まった。
嫌がる理由は蘇双も分かっている。
彼女の関羽や猫族への忠誠心は強固であり、頭も非常に堅い。恋仲になったからといってそれを無くすなんて器用な真似は出来ないだろう。
それでも、蘇双は幽谷の《特別》になりたかった。他者とは違う態度を望んだ。それは恋人を持つ男としては当然の心理だと……思う。
感情についてとんと疎い彼女に無理難題を押し付けている自覚はあるけれど……。
「ボク達は主従じゃないんだ。そう言うの、止めて欲しい」
少しばかり口調を強めて言えば、幽谷は僅かに肩を落とした。眉尻が下がって彼女には珍しい弱りきった表情になった。
少しだけうっとなった。それを押し込めて、強気な態度を崩さない。
「……それは、出来かねます」
「どうして? 恋人でも、主従として接しなければならないって、おかしいと思うよ」
「……仰る通りだとは、思います。けれど、」
「…………もしかして、僕に逆らえなくてこの関係になった、とか?」
想いを告げたのは蘇双だった。幽谷がそれに頷く形で、今の関係になったのだ。
それがもし、蘇双を敬っただけの答えだったとしたら――――……。
幽谷は目を剥いた。慌てた風情ですぐに否定した。
「それは、違います。さすがに私もそのようなことまでは……」
段々と尻窄みになっていく。
その、自信の無さげな様子にこちらの不安も煽られてしまうのだ。
蘇双は溜息をついた。
「……もう良いよ。無理言ってごめん」
八つ当たりだとは自覚している。けれど、どうしても今のこの関係には納得がいかなかった。
幽谷が蘇双を呼ぶも、彼が足を止めることは無かった。
‡‡‡
どうしたのかと、関羽に問われた。
蘇双が一方的な不満を幽谷に当てた日から二日ばかり。幽谷の様子が妙なのだそうだ。
関羽が蘇双と幽谷のやり取りなど知る由(よし)もあるまいに、責められているかのような錯覚に襲われた。関羽からそっと目を逸らして素っ気ない返事を返した。
「後で話を聞いてみるよ。でも、関羽が訊いても話さないの?」
「ええ。何も無いから心配するなって、そればかりで……蘇双なら心当たりがあるんじゃないかって思ったんだけど、」
心当たりはある。あるのだけれど……関羽が訊いて答えないのなら、蘇双にも同じだろう。
そう思いつつ、あの日から言葉を交わしていない幽谷の様子が気になってもいた。
蘇双は幽谷が一人山菜を採りに行ったと言う山へと向かった。
その山には滝もあり、用事が無くとも幽谷は頻繁に訪れていた。
幽谷は水場に好んで入り浸る。多分、今日も滝にも寄っている筈だ。
山菜を採っているところを捜すより、確実な方を取る。
蘇双は真っ直ぐに滝を目指した。
山道は幽谷と猫族皆の手で歩けるように整備されている。雑草がある程度伸びてくると、世平や関羽、そして幽谷が一日かけて刈り取っていた。たまに、蘇双も手伝うようにしている。
また近いうちに刈らなければいけないと世平がぼやいていたから、そろそろ着手するだろう。
滝の轟音が聞こえてくると、蘇双は速度を上げた。二股に分かれた岐路を右に行けば、なだらかな上り坂になる。
そこを上っていけば、滝の音はどんどん大きくなっていった。
暫くすれば、滝が木々の間から見えてくる。
すると、目当ての人物の姿が見えてきた。
彼女は滝を見上げながら、一人佇んでいた。
「幽谷」
後ろに立って名を呼べば、彼女はぎょっとして振り返る。気付いていなかったのか、わたわたと珍しく目に見える程に慌てて、上手く言葉を紡げないでいる。蘇双の名前すら言えていない。
「落ち着きなよ」
「あ、いえ……はい」
「深呼吸でもしたら?」
「はい」
蘇双の言う通り、一度だけ深呼吸をして――――何故か蘇双から一歩離れる。
「幽谷?」
「あ、いえ、あの、私……少々考え事に耽っておりましたので気付きませなんだ」
いつも落ち着いた幽谷がこんなに取り乱すなんて……珍しい。
蘇双はぐっと眉根を寄せ幽谷を眺めていた。
「……幽谷。どうしたの。関羽が幽谷の様子がおかしいって、心配してるよ」
すると、彼女は軽く目を見張り、次いで気まずそうに視線を逸らした。
言いにくそうに引き結ばれた唇からやっとのこと漏れたのは謝罪である。
「関羽様にご心配をお掛けしてしまうとは……。努めて普通にしていたつもりだったのですが」
「多分、君が思うより普通に出来てなかったんだと思うよ」
「……」
幽谷の肩が僅かに下がった。
「それで、何かあったの? ボクにも言えないことなら無理に言う必要は無いけど」
「それは、……いえ」
まるで苦虫を噛み潰したような顔だった。
本当に、今日の幽谷はおかしい。
「幽谷?」
「……蘇双様。私は……恋と言うものが全く分かりません」
「は? ……いきなり何?」
幽谷はやがて意を決したように蘇双を見据える。
今度は何だと思わず身構えると彼女は蘇双に近付いて腰を折った。
それは玉響(たまゆら)のことであった。
一瞬だけ幽谷の顔が視界を埋めたかと思えば、その《感触》。
軽いものではあったが、蘇双の思考を止めるには十分だ。
ぴたりと動きを止めた蘇双からさっと離れた幽谷は、また謝罪を口にした。
「……このくらいしか、今の私には出来ないかと」
「どうかご容赦下さい」と早口に言って、足早にその場を離れた。……逃げたようにも見えるが、彼は気付かない。それどころではないのだ。
幽谷が逃げ出した後、暫くして口を押さえ顔を赤く染め上げる。
その場から、動けなかった。
○●○
蘇双が相手になると初々しい感じになりますね。
ちなみに、夢主は関定に相談してます。最後のあれは彼の入れ知恵なのでした。
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