1.あなたからキスして




1.あなたからキスして(趙雲)



――――幽谷から口付けをされたことが無い。
 それを言った瞬間、言葉よりも手が先に繰り出された。

 拳を掌で受け止めると、彼女の紅唇の隙間から舌打ちが漏れる。


「いきなりどうしたんだ」

「それはこちらの科白です。唐突に女々しいことを言わないで下さい。鬱陶しい」


 心底嫌そうに言う幽谷に、趙雲は苦笑を浮かべて首筋に手を当てた。
 そんなに女々しかっただろうか。ただ、ふっと思ったことを口にしただけなのだが。

 幽谷ははあと吐息を漏らした。


「常時おかしな方ではございますが、今日はいつにもまして変ですね。このような料理屋に誘うなどと……」


 周囲を見渡して眉間に皺を寄せる。

 夜だと言うのに、かまびすしい料理屋の中。幽谷は呵々(かか)と笑っては酒を酌み交わす酔っ払い達の大音声の会話に、度々顔をしかめていた。
 料理が非常に美味いので幽谷を誘ったのだが、やはりこの五月蝿さは彼女を不快にさせたようだ。料理の味を言葉少なに絶賛したものの、周囲の騒々しさにぼそりと『落ち着いて、味わっていられませんね』と抑揚に欠けた声で漏らしたことが、今でも胸に突き刺さる。


「これを食べたら、そのまま帰ろう」

「そうですね」


 幽谷はほとんど感情が表に出ない。起伏に乏しい訳ではなく、ただ隠しておくのが非常に巧みなのだ。
 それが、趙雲の前では崩れてしまうようで、趙雲はそれが嬉しくて仕方がない。

 そんな彼女が、傍目でも分かるくらいにこの喧騒を嫌がっている。
 これは少々面白くなかった。

 雑談少なく食を進めていると、ふと幽谷に絡んでくる男がいた。
 この酔いどればかりの店内、女は給事の女と幽谷くらいだ。
 しかも幽谷は見目が良い。人前だからと眼帯をしていてもそれが衰えないのだから、酒で気の大きくなった男が放っておく筈もない。

 壮年で毛深い男は幽谷の隣に椅子を持ってきて座る。
 趙雲とて勿論腹立つものがあったが、幽谷から一瞬殺気が放たれた時にはさすがにひやりとした。


「姉ちゃん、綺麗な顔してるねぇ」

「……ありがとうございます」

「どうだい、あっちで俺達と酒飲まねぇかい? この兄ちゃんなんか放っておいてさぁ」


 殴りかかっていたのを見ていたのか、「こっちの方が楽しいって」などとにやにやと誘う。
 幽谷が無表情のまま、しかししっかりと断っても彼はしつこく食い下がった。

 酔っ払いが言葉を重ねると共に、不躾に肩や腰に触ってくる。
 さすがに趙雲が「すまないが」と声色低く待ったをかける。


「彼女は過度な接触は好まない。それに俺達は食事さえ済めばすぐにでも帰るつもりだ。悪いが、諦めてはくれないか」


 努めて穏便に、と心掛ける趙雲を、酔っ払いは不愉快そうに睥睨する。


「兄ちゃんには訊いてねぇよ。俺ぁ姉ちゃんに訊いてんだ、兄ちゃんはとっとと帰んな!」


 何処からかこの酔っ払いを囃し立てるような声が聞こえた。彼と飲んでいる者達だろう。彼らも相当酔っていた。
 店側の迷惑を考えると強気には出られないし、自分は武人で相手は一般人。酔っ払いはどんな行動を取るか分からないが、せめて暴力沙汰は避けておきたかった。

 けれども酔っ払いはその声にいよいよ調子づいて拳を鳴らした。自分の武勇伝を誇張して得意気に語り出す。……趙雲にしてみれば、他愛ない程度のものなのだけれど。

 だがこれは、回避したい展開だ。
 立つように促された趙雲は、どうするかと渋面を作った。

 一度幽谷の様子を窺ってみたが、また殺気が放たれ始めていた。非常に危険だ。


「どうした、兄ちゃん。怖くなったか?」

「いや、そのようなことは全く無いのだが……俺達は店の料理を楽しみに来たのに、店やただ酒を飲みに来ただけの人々に迷惑をかけてしまうのは如何(いかが)なものかと思ってな」


 趙雲の言葉に、数人が同意して声を張る。……正直、事が大きくなりそうなのでそれは止めて欲しかった。

 彼の赤ら顔が更に紅潮する。
 憤る彼から、幽谷は吐息混じりにそっと離れた。そのまま給事の女性のもとへいってしまう。
 けども、酔っ払いは気付いていなかった。憎らしげに、冷静な趙雲を睨み付けた。

 彼を眺めながらどうしてそこまで怒るのかと疑問に思う。
 だが、酔いというものは得てして人に予想出来ぬ行動をさせる。酒は飲んでも飲まれるな――――そんな言葉がふっと趙雲の脳裏をよぎった。


「立て! 決着着けてやろうじゃねぇか!」

「……いや、俺達は初対面で決着を着けるような間柄ではないんだが」

「うるっせぇ!! 男ならぐだぐだ言わずに表に出ろおっ!!」


 滅茶苦茶である。
 趙雲は溜息を漏らした。

 これは付き合わなければならないのだろうか。
 仕方なく立ち上がろうとした趙雲はしかし、誰からか後ろから肩を掴まれて押さえ込まれた。

 幽谷だ。


「幽谷」

「お代はまた後日払いに来ると店主に申して参りました」


 「今日はこれで帰りましょう」酔っ払いを一瞥した後、幽谷は立つように促して趙雲の手を引いた。

 と、酔っ払いは今幽谷に気付いたかのような顔をして、にたりと下卑た笑みを浮かべて酌を強いてきた。つい先程絡んできたのはそちらであろうにと、思っていた以上に酔っている彼にもう呆れも浮かばない。

 「質(たち)が悪い」――――嫌悪感丸出しの独白に苦笑した刹那である。
 幽谷が趙雲の腕を強く引き、彼は体勢を崩してしまった。

 爪先に力を込めると同時に、ほんの一瞬だけ頬に湿った感触。
 えっと思ったのもつかの間彼女は酔っ払いに向かって笑顔を《張り付けて》、


「申し訳ございませんが、邪魔をしないでいただけませんか」


 と、恐ろしく低い声で言うのである。

 赤ら顔が青ざめ、酷い顔色へ変わる。凍り付いたように動きを止めてしまった彼から視線を逸らした幽谷は、趙雲を呼んでそのまま颯爽と店を出た。

 店からやや歩いたところで立ち止まって、辟易した風情で溜息を漏らした。


「まったく……」

「すまなかったな。昼にしておけば、こんなことにはならなかった」

「構いません。また後日、参ればよろしいでしょう。今は早く帰りましょう。よろしいですね」

「ああ」


 幾らか穏やかな声をかけた幽谷が歩き出した。

 趙雲はその背中を見つめ、未だに感触の残る頬を押さえた。
 はっきりと思い出した瞬間、全身が高揚した。

 ……どうしようか。
 今、幽谷を抱き締めたくて仕方がない。



 いやが上にも、口が弛んでしまう――――。



○●○

 この直後彼は抱き締めようとします。
 そして匕首を咽元に突きつけられます。

 夢主があんなことをしたのは、酔っ払いと趙雲をそれぞれの理由で黙らせる為です。



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