幽谷と夏侯惇





 陣屋に用があって、不本意ながらに赴いた。

 どうして碁盤などを四凶に届けなければならないのだ。
 しかも、曹操からの言伝てもある。明日の昼にまた碁を打ちに来い、と。

 四凶は碁が打てるらしい。曹操と互角だとか。
 曹操が珍しく嬉しそうに話していたのを覚えている。正直、不満があった。

 色んなことで四凶に劣っていると見せ付けられ、非常に気分が悪い。
 今、夏侯惇は不機嫌だった。

 十三支の陣屋を歩き回る内、それも段々と酷くなっていく。


「……っ気分が悪い」

「であればここに来なければよろしいでしょう」


 背後から、声。
 振り返れば、そこに目当ての人物が怪訝そうにこちらを見ていた。今日は外套をまとっていないようだ。


「四凶……」

「珍しいですね。あなたがここにいらっしゃるなんて。戦ならば、いつもは兵士の方がいらっしゃるでしょうに」

「……曹操様から貴様へ渡せと言われたのだ」


 憮然として、曹操が特別に作らせた真新しい碁盤などを彼女に押し付けるように渡す。
 四凶は驚いて緩く瞬いた。


「曹操殿がこれを私に?」


 碁盤を抱え、首を傾ける。


「打ちたい時は言えと仰った筈なのですが」

「……つくづく無礼な奴だな。お忙しい曹操様とお前のような者が気軽に会えると思うな」

「ですから、今までしたいと思っても言わずにおりました」


 ああ言えばこう言う。
 夏侯惇は舌打ちした。

 四凶は、彼が自分に対し機嫌を悪くするのはいつものことと、無表情で彼の様子を眺めている。


「……用件は、これで終わりでしょうか。でしたら私はこれにて失礼致します。曹操殿に、私が深く感謝しておりますことを、どうかお伝え下さいまし」


 彼女は夏侯惇に頭を下げた。不機嫌な彼とこれ以上関わっても、何も良いことは無い。むしろ面倒。触らぬ神に祟り無し、という奴だ。

 さっさと離れて世平や蘇双に相手をしてもらおうと上機嫌で歩き出せば、すぐに呼び止められた。


「……曹操様から、言伝ても預かっている」

「……はあ」


 そのように如何にも気が進まないといった体で言われても、こちらが腹立つだけだ。

 しかし穏便にと無表情を維持する。

 夏侯惇は溜息を一つついて、言を発した。


「明日の昼、碁を打ちに来い、とのことだ。曹操様の温情だ、遅れることは許さん」

「……」

「何だ、返事くらい――――」


――――それは一瞬である。
 四凶の口角が弛んだ。

 彼女が、笑ったのだ。

 夏侯惇は寸陰停止した。
 ……いや、彼女が笑う姿は見たことはある。
 動物や関羽達に笑いかけているのを見たことがある。

 それにこれは自分に笑いかけた訳でもないのだ。
 だから、こんなに驚くことではない。ないのに。
 呼吸が止まったような気がした。

 無表情に戻ってしまった彼女から目を逸らせば、四凶が夏侯惇を呼んだ。


「……っ、何だ」

「曹操殿に、必ず参りますとお伝え下さいまし」


 もう一度、彼女は頭を下げる。

 夏侯惇が口を開くが、そこで邪魔をするように遠くで十三支の男達が四凶を呼んだ。

 四凶はそれに気付くなり、夏侯惇に断りを入れてその場を辞した。

 夏侯惇は、彼女が十三支の男達と合流するまで、その背を睨むように見つめていた。
 あの笑顔は、純粋に碁が打てるからなのか、それとも曹操と打てるからなのか……。

――――後者でなければ良い。

 そう思い、驚く。
 なぜ自分がそんなことを思わなければならない?
 これではまるで自分が――――いや、有り得ない。絶対に有り得ない。自分に限って、そんな筈がないのだ。

 そう、曹操に余計な感情を持たれては困るからだ。
 そうに決まっている。
 夏侯惇は無理矢理そう納得し、大股でその場を離れていった。




○●○

 夏侯惇見とれました之巻。
 曹操の番外とリンクしてます。

 そしてまた近いうちに曹操と夏侯惇で書きたいです。碁ネタ。



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