幽谷と趙雲





――――迷子の子犬を見つけた。
 買い忘れがあって、洛陽の町を一人歩いている時、突然足にまとわりついてきたのだ。さすがに、あの時は転倒しかけた。

 この都にいることと、手作りの紐が首に巻かれていることから、恐らくは人に飼われているのだろう。

 尻尾を振ってじゃれつく子犬に、幽谷は困りながらも飼い主を探すこととした。
 今は幽谷の腕に抱かれ、健やかな寝息を立てている。


「……人の気も知らないで」


 言葉とは裏腹に、彼女は薄く笑っていた。

 だがそれも、即座に凍りつくことになる。


「幽谷じゃないか」

「!」


 不意に聞き覚えのある声をかけられ、幽谷は笑みを消す。振り返らずに颯爽と歩き出した。

 しかし、声はまた幽谷を呼ぶ。一向に遠ざからないのは、追いかけてきているのだろう。

 しつこい!
 思わず舌打ちした。

 その音に反応して、子犬が起きてしまう。問いたげにつぶらな瞳を幽谷に向ける。

 されど今の幽谷に子犬に構える余裕は無く。
 彼女らしくなく道に迷うまで、決して立ち止まりはしなかった。



‡‡‡




 ああ、もう。
 幽谷はまた舌を打った。

 最悪だ。
 道に迷うし彼に捕まるし。
 暗鬱とした気分で、隣に立つ青年を睨み付けた。

 彼――――趙雲は、幽谷の抱える子犬を眺めている。子犬に用があるだけなら追いかけないで欲しいのだが。


「この犬、幽谷が飼っているのか」

「飼っていません。迷い犬です」


 けんもほろろに答え、きびすを返す。
 が、歩き出せば何故か趙雲もついてくる。


「……何故ついてくるんです」

「俺も手伝うよ」

「不要です」

「だが、先程『迷った』とぼやいてなかったか?」

「迷惑なくらいに耳が良いんですね」


 嫌味を言ってやるも、趙雲には効かない。笑って流される。


「……はあ」

「風邪はもう大丈夫なのか?」

「ええ。ご心配無く」

「……だが、まだ隈が残っているな。ちゃんと寝ているのか」

「あなたには関係ありません」


 というか、手伝わずにこのままさっさと何処かへ行って欲しい。
 彼と歩くのは嫌だった。
 幽谷自身、他人にここまで強く苦手意識を持つのは初めてだ。いや、これはもう嫌悪と言い換えても良い。

 しかし趙雲は負けじと言葉をかけ続ける。
 幽谷にどんなに冷たくあしらわれても、気分を害した風も無く、機嫌を取る風でもなく、ただただ話しかけ続ける。たまに、子犬にもちょっかいをかける。


「ところで、目星はついているのか?」

「ついていたら迷っていません」

「それもそうか。なら、何処から探そうか……紐を見るに、官吏の家系などではなさそうだ」


 などと、彼は少しばかり視線を上げて思案する。
 この隙に逃げるか、とも考えたが、その素振りを見せた瞬間外套を掴まれてしまった。……どうしてここで過敏になるのだ。


「よし。まずはあそこに行ってみよう」

「一人で行って下さい」

「子犬の飼い主を探しに行くんだ、そいつを連れていかなくてどうする」


 ……ああもう、殴って逃げたい。
 どうしてこの男はこうも笑顔なんだ。冷たく接しているのに、にこにこにこにこと……!
 半ば本気で拳を握る。

 だが、不意に子犬が胸に前足を当ててぐいっと背伸びした。何をするかと思えば、ぺろりと顎を撫でられる。

 幽谷は唐突なことに驚いた。瞠目し、子犬を見下ろす。


「……どうしたの?」


 子犬は吠えた。尻尾を振って何かを伝えようとする。
 動物の言葉を解する幽谷は、ふっと笑んだ。

 ……趙雲の前だと言うのに。


「――――、」


 趙雲は言葉を失う。
 
彼の様子がおかしいのに、幽谷は訝って眉根を寄せた。


「何ですか。気味の悪い……」

「……いや。やはりお前はもっと感情を表に出すべきだと思う」

「は?」


 突然何を言い出すかと思えば、下らない。
 幽谷はすっと眉を顰め、


「あなたの頭は大丈夫ですか?」


 と。
 趙雲は苦笑した。


「そうだな……、一瞬目を奪われたということがそうであるならば、少し大丈夫ではないのかもしれないな」

「……すいません。私に近付かないで下さい」


 ぞっとした。
 幽谷は顔を歪めて趙雲から距離を取る。

 趙雲は噴き出した。


「……趙雲殿」

「はは……いや、すまない。可愛いと思ってな」

「……」


 蔑視を向け、また更に離れる。歩く速度を速めた。

 何なんだ、この男は。
 無礼にも程がある。
 四凶だからか。四凶だからこうも揶揄されるのか。
 ああもう……本当に腹が立つ。
 子犬を撫でながら、幽谷は長々と溜息をつく。

――――その時である。


「あっ! 蘭々!」


 女児の声がした。
 同時に子犬が身を乗り出す。

 幽谷が足を止めると、ぱたぱたと子犬に良く似た毛色の成犬を隣に、可愛らしい女児が駆け寄ってくる。よくよく見れば、成犬の首と女児の左の手首には、子犬と同じ色の手作りの紐が巻かれてある。


「お姉さんが蘭々を見つけてくれたのね! ありがとう!」

「ええ。今度は、ちゃんと見ていてあげて下さいね」


 屈み込んで子犬を手渡すと、子犬はめっ、と叱る女児の顔を舐め出した。

 成犬が子犬に鼻を寄せ、ぺろぺろと舐める。


「ありがとう! お兄さんもありがとう!」

「ああ、どういたしまして」


 いつの間にか、隣に立っていた趙雲。咄嗟に距離を取る。

 女児は二人に頭を下げて、くるりときびすを返した。
――――けれど、何を思ったのか振り返って、何やら含みのある笑みを浮かべ、


「お幸せにーっ!」

「は!?」


 そこで初めて、幽谷は声を荒げた。
 『お幸せに』――――なんて、そんな恋仲の男女に言うような言葉ということで。

 勘違いされている!


「じゃあ、さようなら!」

「ちょっと、待――――」


 弁明する暇も無く、女児は走り去ってしまう。

 幽谷は嘆息してこめかみを押さえた。


「どうしてこんなことに……」

「まあ、良いじゃないか。気にするな」


 この男がいた所為だ。
 調子は崩されるし、変な勘違いはされるし……町に出てくるんじゃなかった。

 ……頭が痛い。
 こめかみを押さえ、幽谷は長く深く嘆息した。

 反対に、趙雲は満更でもないようだった。女児の言葉を反芻(はんすう)し、幽谷の見えないところで静かに笑う。


「……では、失礼します」

「送ろうか?」

「結構です。これから所用がございます故」


 じとりと睨み付け、彼女は早足に趙雲から逃げ――――否、離れていく。

 趙雲は苦笑を浮かべながらもそれを見送るのだった。


 ……最も、幽谷がまたすぐに迷ってしまうので、結局追いかけてきた趙雲に陣屋まで送られることになるのだが。



○●○

 何処に置くか迷いましたが、取り敢えず趙雲は劉備軍扱いとします。

 ペースを乱される夢主が楽しくて仕方がないです。
 ギャグ要素がほとんど無い子ですから……。

 子犬が何と言ったかはご想像にお任せします。



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