幽谷と曹操
幽谷は曹操の屋敷に来ていた。
関羽はいない。
今日は、関羽の菓子を劉備と――――曹操に届ける為だ。
何故曹操に、とは当然の疑問である。されど、関羽曰く曹操には何度か世話になっていたらしい。そのお礼をかねて、お菓子をとのことだった。
果たして彼女が受け取ってくれるのか、いや受け取ってくれたとしても彼がこれを口にするか分からない。そのような印象が無いのだ。
だがつい最近まで雨が続いており、溜まった分の洗濯で忙しい関羽に頼まれては、断れる筈もない。
幽谷は溜息をつきながら、屋敷の門をくぐった。
先に劉備の部屋を訪れたのだが、生憎と昼寝の最中だったので、書き置きと共に菓子を側に置いておいた。
それから夏侯惇に会いそうになったのを、面倒なので避けて曹操の部屋の前に至る。
声をかけて応えを待ち、扉を開く。
「どうした。劉備に会いに来たのなら、部屋が違うぞ」
「関羽様より、お礼の品をお持ちいたしました。菓子ですので、お早めにお召し上がり下さいませ。なお、毒などは入っておりませぬ故、ご安心下さい」
勘ぐられそうなのを先んじて防ぎ、幽谷は書簡を読んでいたらしい曹操に菓子の包みを差し出す。
曹操は菓子を受け取った。されど、怪訝そうに包みを見る。
「礼?」
「何度か世話になったとお聞きしておりますが」
そこで、曹操は納得したように頷いた。思い当たる節はあるようだが、言葉にはしない。聞きたいが、幽谷も無用な詮索と質すことはしなかった。
曹操が机に置いたのを見届けて、ふとその右手にある碁盤に目が行った。
碁、か……久しくしていないわね。
将棋もしていない。
曹操軍から支給される金も限られている為、碁盤なども用意出来ない。
まだもう暫くは出来ない、か……。
少しだけ惜しく感じた。
それを曹操が訝(いぶか)しむ。
「碁盤がどうかしたか」
「……いえ、久しくしていないと思っただけです。では、失礼いたします」
「待て」
部屋から出ようとしたのを、曹操に呼び止められる。
「何でしょう」
「碁を打てるのか」
彼の問いに緩く頷いた。
すると、曹操は暫し思案し、書簡を片付けて碁盤を引き寄せた。
「相手をしろ」
「……は?」
幽谷は面食らって間の抜けた声を発した。
「私と、曹操殿が、碁を? 打つと?」
「そう言っている。何だ、見栄を張っただけなのか」
「いいえ、そうではなく……曹操殿が四凶と碁を打つとは思わず」
「碁は、将の器も見える。お前を見定める良い機会だと思っただけだ」
幽谷は曖昧に相槌を打ち、曹操に促されるままに碁盤を挟んで彼の前に端座した。
まさかこんなところで碁が打てるとは……それも曹操と。
これで負かしたら劉備が危うくなるのではないか――――いや、さすがにそのような狭量ではないか。
曹操が白、幽谷が黒。
それぞれ碁石を持って、曹操の開始の合図と共に対局を始める。
久しい碁に、彼女は少しばかり喜んだ。場所が場所なだけに、心から喜べはしないけれど。
ぱちん、ぱちん、と碁を置く音だけが部屋に響く。
二人は無言である。相手の一手二手先を読み、それからどう碁石を置くか思案する。
囲碁は戦略図であり、将棋は作戦盤となる。
それ故に武将は必ず身に付ける教養にもなっている。
幽谷はただ、世平に教わり、その奥深さに魅せられただけだのだが、世平にも劣らぬ腕である。
双方無言のまま碁を打ち、静かに互いの策略をぶつけ合う。
世平とやるのとはまた違った対局に、幽谷は知らず、乾燥していた唇を舐めて湿らせた。
‡‡‡
二勝二敗。
時間の許す限り打った結果である。
引き分けるとは、また意外な結果だった。
「まさか、四凶が囲碁に長けていたとはな」
何処か嬉しそうに漏らす曹操に、幽谷は頭を下げる。
「ありがとうございました」
「何故礼を言う」
「碁が久し振りに出来たので、とても嬉しゅうございます。あなたの猫族の敵ですが、この場では、お礼申し上げます」
余程嬉しかったのか、無意識に笑みをこぼす曹操は僅かに目を見張る。それから幽谷から目を逸らして、再び書簡を開いた。
「……また打ちたいのならば、私に言え。碁盤を貸そう」
「ありがとうございます。では、失礼いたします」
書簡に集中しだした曹操に、幽谷は頭を下げ、部屋を辞す。
曹操は幽谷が出て行った扉を見、次いで脇に戻した碁盤を見下ろした。
「私が、四凶と引き分けるか……」
抑揚に欠けた声だ。
しかし、感情を悟らせぬそれとは裏腹に、彼の薄い唇は横たわった三日月の形を描いていたのだった。
○●○
ネタを探して探して後に落ち着きました。
アンケートで二位だったから曹操を書かなきゃ書かなきゃ思っていたら、逆にネタが浮かばなかったと言うね……。
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