幽谷と夏侯惇
幽谷にあしらわれた夏侯惇はしかし、即座に彼女を追いかけた。
許せないのだ。
自分達が、四凶などと汚らわしい存在に劣るなどと、如何に曹操の言葉と言えど到底許容できるもではない。
自分はまだあの四凶とは本気でやり合ったことが無い。本気でやればきっと……。
「――――いた!」
幽谷は川の畔にいた。一人、風に髪を踊らせて佇んでいる。
彼女を見つけた瞬間足を止めていた夏侯惇は、再び走り出した。
そんな彼の気配に気付いていたのだろう幽谷は、ゆっくりと振り返る。
「……追いかけてきたのですか」
「……」
夏侯惇は無言で剣を構える。
幽谷はやおら溜息をついた。仕方がなさそうに、幽谷も匕首を構えた。
「どうあっても、戦えと?」
「ああ。俺が四凶なんぞに劣る筈がない。それを今証明してやる」
「……いや、別に四凶に勝てたって言っても大した自慢にはなりはしないかと……むしろ周囲から馬鹿にされるのでは?」
「良いから黙って武器を構えろ!」
横暴だ。
幽谷は溜息を禁じ得ない。
「武人というのは大変ですね」
幽谷はぼやいた。
ゆっくりと腰を沈め、夏侯惇を睥睨する。
夏侯惇は乾いた唇を舐めて湿らせた。
俺が、四凶に劣る筈がない。
そう自分に言い聞かせて地を蹴る。
幽谷はその場から動かなかった。夏侯惇が間合いに入るのを待つかのように、冷めた視線を彼に向けてじっとしている。
だが、夏侯惇が逆手に持った剣を振るったその瞬間、
姿が消えた。
「なっ!?」
夏侯惇は動きを止める。
幽谷はその背後に現れ、夏侯惇の首筋に匕首を当てる。
彼は息を張り詰めた。
まだ、一合も合わせていないのに、難なく背後を取られ、首を取られた。
この、俺が……!?
愕然とした。
同時に彼女の武は夏侯惇の矜持と曹操軍の将としての自信をずたずたに引き裂いた。
曹操様の言う通り、俺では四凶にすら……!
剣が彼の手から落ちる。
「私は人間でも、猫族でもない。全ての理から除(の)けられた穢れ」
幽谷は夏侯惇から離れ、匕首を戻した。
「あなたが相手をしたのは世界の穢れ。故にあなたとの手合わせは無効です。あなたの武は人間の中で輝けば良い。四凶(ばけもの)なぞ相手にする必要などありません」
くるりと身を翻し、幽谷は歩き出す。
夏侯惇は慌てて彼女を呼び止めた。
「待て!」
「……まだ、何か」
「貴様は何だ。何故そのような力を持つ」
何だ、とは。
あなた達が良く知っているじゃない。
幽谷は無表情に彼を振り返った。赤い左目が夏侯惇を射抜く。
「私は四凶。貪欲に人を喰らう汚らわしい龍の子饕餮(とうてつ)。あなた方が、そう言っているではありませんか。私の力は忌まわしきもの。存在と同じく、穢れそのものなのでしょう」
幽谷の声音は静かだ。そこには何の感情も無い。
「あなたの目指すべきものではありません。話はこれで終わりですか。では、失礼いたします」
今度こそ、幽谷はその場を立ち去る。
一人残された夏侯惇は、離れていく彼女の背を見つめ、ぎりりと歯軋りした。
――――悔しい。
悔しくて悔しくてたまらない。
何故自分が汚らわしい四凶に劣る?
何故、人間の自分が――――。
『あなたの武は人間の中で輝けば良い。四凶(ばけもの)なぞ相手にする必要などありません』
化け物。
あれは、化け物。
……なら、人間の自分が負けるのも無理はないのではないか?
不意に芽生えた考えに、全身がぞっとした。
「――――くそぉっ!!」
夏侯惇はその場に座り込んで地面に拳を叩きつけた。
幽谷に敵わないことを化け物で言い訳にすることは、夏侯惇の矜持が断固として許さなかった。
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