09:一晩明けて
※若返り続き
09:一晩明けて(趙雲)
ひんやりとした夜。
幽谷は唐突に目を覚ました。
ゆっくりと瞼を押し上げると、眼前には趙雲の無防備な寝顔がある。
少し驚いたが、すぐに今宵は添い寝をしてくれていたのだと思い出した。
目が冴えてしまったからと起き上がろうとし、ふと自身の身体に違和感を感じた。何となく、服がキツいのだ。
見下ろし――――得心が行く。
「……戻ってる」
髪を触れば、それは肩に届かない。
幽谷は吐息を漏らした。戻ってくれたことに深く安堵した。
つと趙雲を見下ろし、その頬を優しく撫でた。
――――本人の前では絶対に言わないが。
あの姿の自分を受け入れてくれたことが、とても嬉しかった。
幽谷は彼を起こさぬようにと慎重に寝台を降り、手早く服を着替えた。
それから、そっと家を出ていく。
肌寒さに身震いし、歩き出す――――。
‡‡‡
目覚めたら幽谷の姿が無かった。
趙雲は飛び起きて、まだ日も上がらぬ内と言うのに家を飛び出した。
まさか彼女の身に何か遭ったのではないか――――そう思うと一層気が逸(はや)る。
趙雲は夜の村を一人駆け回った。
しかし彼女は村何処にも見当たらない。
立ち止まって逸る心中を落ち着けて思案するこのような夜更けに、彼女が村から遠く離れるとも思えない。近場で彼女の行くような場所は――――水場か。
趙雲は再び駆け出した。
猫族の村を出ていったなんてことは無いと信じたい。
けれど、幽谷は主に似て何事も抱え込むような女性だ。何も言わずに何処かに行ってしまうことなど有り得ないことでもないのだ。
趙雲は急いだ。彼女が一刻も早く見つかってくれることを祈った。
‡‡‡
水面に月が浮かんでいる。ゆらゆらと揺らぐ。
幽谷はそれを見つめながら、湖畔に一人佇んでいた。
だがその足元には一頭の鹿の姿があった。ゆったりと横たわり、幽谷を見上げている。偶然出会った雄の鹿がそのまま懐いてついてきてしまったのだった。
幽谷はふと、後方で気配を捕らえて身体を反転させた。
しかも耳をぴんと立てて首を上げる。
茂みを揺らして現れたのは趙雲であった。酷く憔悴しきった顔をしている。
彼は幽谷を見つけるなり彼女に駆け寄って幽谷を抱き締めた。苦しくなる程に強く強く抱き締めた。
「ちょ、趙雲殿……っ?」
「見つかって良かった……」
幽谷は目を細め、趙雲を見上げた。
「見つかる? あの……」
「目覚めたらいなくなっていて驚いた。もしかしたら、村からいなくなっているのではないかと思って……」
それで、血相変えて探していたと。
幽谷は顔を歪めて趙雲の拘束を無理矢理解くと、屈んで鹿を撫でた。
「私は、猫族の方々のもとを離れはしないわ。私の役目は猫族の方々を、関羽様をお守りすることですから」
「そうか……」
幽谷が顔を撫でてやると、鹿はうっとりと目を細めた。
それを見下ろし、趙雲はそこでようやっと気付いた。
幽谷の身体が元に戻っているのだ。
「幽谷、戻ったんだな」
「え? あ、ええ……そう言えば、そうだったわ。起きたのは身体が戻ったから」
「良かったな」
「ええ、そうね」
幽谷が立ち上がると、鹿も立ち上がる。
「もうお帰りなさい」
そう声をかけると、鹿は名残惜しそうに幽谷の手に顔を擦り付ける。それからゆっくりと身体を反転させると、優雅に森の奥へと歩いていった。
それを幽谷は微笑を浮かべて見送る。鹿の姿が森の闇に呑み込まれていくのを見届けて、湖に向き直った。
「幽谷?」
「……色々と、思い出していたの。昔のこと」
「猫族の村に来る前のことか?」
幽谷は、暗殺一家犀家の人間だった。数々の暗殺に手を染めた彼女は、生まれて初めての失敗にどうでも良くなって猫族の村に流れ着いたのだと。その時異様に死に執着していたことも、聞いた。
趙雲は後ろから幽谷を抱き締めた。腰に手が回り、それに幽谷が手を重ねる。
「しかし、今は違うだろう」
「ええ。でも、私は暗殺の世界しか知らなかった。今でもそう。いつか戻るのではないか、戻らなければならないのではないかと、思っていたの。それが私の本来在るべき場所なのだとしたら……」
「幽谷」
叱るように語気を強めて呼べば、幽谷は黙り込んでしまう。
彼女が暗殺の世界に戻ることなって絶対に無い。猫族の傍が彼女の居場所だし、趙雲がずっと傍にいるのだから、踏み込みかけたら引き戻す。彼女から人の心を奪うような暗殺の世界に戻すなどと絶対に許さない。
「幽谷」
「何ですか?」
「こっちを向いてくれないか」
腕を解けば、幽谷は身体を反転させる。怪訝そうに見上げた。
彼女と目が合うと、趙雲は頬を撫でて額をこつんと合わせた。
幽谷は緩く瞬いた。
「趙雲殿?」
「そんなことにはさせないよ。俺も、猫族の者達も。お前を暗闇に飛び込ませたくはない。お前の居場所はここなんだ。それに、俺もお前がいる場所が俺の居場所だ」
幽谷はひゅっと息を詰めた。
趙雲は幽谷の顎を掴むと上げさせて、唇にそっと己のそれを重ねた。
重ねるだけ。重ねるだけで、じっと長い時間をかける。
幽谷は目を伏せた。
唇が離れると、幽谷の顔を胸に押し付ける。
「幽谷。大丈夫だから――――何処にも行かないでくれ」
「趙雲殿、私は、」
旋毛(つむじ)に口づけを落として趙雲は彼女を抱き締める。
幽谷はほうと吐息を漏らし、瞑目した。
「……ありがとう、ございます」
趙雲はそっと背中を撫でてやる。
泣いてくれないだろうか――――そう思うけれど、彼女は瞑目し胸に顔を擦り寄せるだけだ。
……けれど、その甘えるような仕草だけでもしてくれるのは、とても嬉しい。
幽谷は主に似て何でも溜め込むのだ。こうして甘えてくれるのなら、まだ大丈夫だと思える。
いつか、溜め込んだものが爆発しそうになったとしたら、気付いてやれば良い。彼女が過去に不安を覚えることが無いように、今を支えてやれば良い。
自分が、傍で。
「幽谷」
「何でしょうか」
顔を上げた彼女に、趙雲は微笑みかけた。
「俺の心はずっと、お前の傍にいる」
●○●
どの話の続編にするか迷った末こういうことに。
ていうか……夜、明けてない……(・・;)
.
- 44 -
[*前] | [次#]
ページ:44/60
←