08:記憶喪失




08:記憶喪失(夏侯惇)



 ここは、何処だ。
 こんな家、私は知らない。




‡‡‡




 関羽は愕然としていた。
 今、自分を押し倒しているのは紛れも無い友人である。今までこんなことは全く無かったのに。
 どうして――――彼女の匕首が自分の首にあてがわれている?


「幽谷……?」

「誰だ」


 低い、重厚な声に背筋がぞっとする。
 関羽は茫然自失と幽谷を見上げ、瞳を揺らした。

 どうして、彼女はこんな風になっているのか分からない。まったき殺意が苦しい。
 わたし、幽谷を起こしに来ただけなのに……どうしてこんなことになっているの?


「どうしたの? 幽谷」

「誰だと訊いている。質問に答えろ」

「……か、関羽よ。覚えていないの?」


 幽谷は色違いの双眸を細めた。思案するように、一瞬だけ焦点がズレる。それから関羽を見下ろし、徐(おもむろ)に退いた。顎に手を添え、考え込む。途中で部屋を見渡し、小さく唸った。

 関羽は起き上がって幽谷を呼んだ。だが、彼女の隙の無い後ろ姿に近付けない。


「この、部屋は……」

「あなたの家の寝室よ。皆で建てたじゃない」

「私の家?」


 幽谷は関羽を振り返る。探るように彼女を見据えてまた思案した。


「……記憶に無い」

「……」


 まさか記憶喪失?
 いや、でも頭に衝撃があるようなことは昨日は無かった筈だ。
 なら、今朝?


「ここが何処か分かる?」

「……いえ」

「じゃあ、最後の記憶は?」


 そこで彼女は黙り込み、一言「董卓暗殺の任を受けて屋敷を出た辺り」と。
 関羽は幽谷の言葉を反芻(はんすう)した。
 董卓暗殺の前――――ならば猫族の村に来る直前のことだ。どうやら暗殺に失敗して以降のことが、ごっそりと抜け落ちているようだった。これはどうしようか。


「幽谷、ちょっとこっちに来て!」

「……」


 関羽が幽谷の手を掴むと、彼女の手がびくりと震えた。だが、不思議そうにその腕を見下ろすだけで抵抗はしてこない。それに、関羽は安堵した。
 その手を引いて家を出た彼女は真っ先に自分と世平の住む家に飛び込んだ。


「世平おじさん!」


 丁度、世平は釣りに行こうとしていたらしい。釣り竿を肩にかけてまさに家に出ようとしてたところであった。
 関羽が飛び込んできたことに驚いた彼は、警戒を剥き出しにしている幽谷の様子を不審に思い目を細めた。


「関羽」

「ええ。幽谷にちょっと問題が起こって……」


 手短に、幽谷の異変について説明する。
 世平は幽谷を見つめて眉根を寄せた。


「記憶喪失、か……そいつはまた、厄介なことになったな。幽谷、俺のことは覚えているか」

「全く」

「では、記憶を失ったことに心当たりはあるか?」

「いいえ」

「そう、か……。となれば、あまり安易なことは出来ないな。地道に記憶が戻るのを待つしか無い、か」


 関羽は頷き、幽谷を振り返る。
 彼女は自分達を猜疑の眼差しで見つめている。当然だが、まだ信用されてはいないようだ。
 昨日までお茶をしたり、劉備と一緒に花を摘みに行ったりしていたのに……彼女の変化が凄く寂しい。


「関羽、今日は幽谷を若いもんに会わせろ。夏侯惇達にも、だ。俺は俺で何か無かったか村のもんに訊いてみよう」

「ありがとう、おじさん」


 世平は釣り道具を置いて、幽谷の肩の手を置くと早足に家を出ていった。
 幽谷はその後ろ姿を見送り、彼に叩かれた肩を撫でた。また不思議そうな顔をする。

 関羽は一人、拳を握った。


「よし。そうと決まれば早速皆に会わせてみよう。幽谷、わたしについてきて!」

「……はあ」


 幽谷は、眉間に皺を寄せた。



‡‡‡




――――惨敗である。

 劉備も張飛も駄目、蘇双も関定も駄目――――趙雲も夏侯淵も曹操も駄目。

 残るは夏侯惇だけ。

 未だ記憶の戻る気配の無い幽谷に、関羽は落胆を隠せない。
 それでも幽谷はそんな彼女の様子に気を遣うことも無く、周囲への警戒をより一層強めている。一応、暗器を全て没収して良かったと思う。この様子では、何かあればすぐに攻撃してしまいそうだ。

 記憶、戻ると良いんだけどなぁ……。
 もはや幽谷と恋人関係にある夏侯惇が最後の砦なのであった。

 今、夏侯淵が夏侯惇を探しに行っている。
 欄干に寄りかかって待っていると、ばたばたと騒々しい足音が二つ、どんどん近付いてきた。


「幽谷!!」

「夏侯惇! 良かった……」


 狼狽した風情の彼に、関羽はほっと胸を撫で下ろす。

 夏侯惇は幽谷を見やると、すっと眉根を寄せた。


「幽谷、俺が分かるか」


 幽谷は無言。じっと夏侯惇を見つめ、やおら首を横に振った。
 されど、少し様子が違う。悩むように俯き加減に眉間に皺を寄せるのだ。


「……ただ、」

「「ただ?」」


 関羽と夏侯惇の声が揃う。

 幽谷は夏侯惇を一瞥してつかの間遠い目をすると、ぽつりと呟いた。


「理由は分かりませんが……ほっとした、と言うか――――」

「……っ幽谷!!」

「!」


 関羽が感激の声を上げて幽谷の手をがっしと掴んだ。感極まったように瞳を潤ませて幽谷を見上げている。

 幽谷は困惑した。気圧されて僅かに背を逸らした。
 手を引こうとしても、関羽の力は思いの外強く手を外せない。


「あ、の……?」

「幽谷! 今日は一日夏侯惇と一緒にいた方が良いわ! そうしたらきっと記憶が戻る筈!!」

「え、はい……?」


 関羽は名案とばかりに困惑する幽谷を夏侯惇に押しつけるようにする。


「あの、何を……」

「良かったわ! このまま記憶が戻らないかもって思っていたから……目処がついて本当に良かった!!」

「目処?」


 一人、関羽は喜んでいる。黒の双眸を潤めてすらいた。

 幽谷は眉根を寄せて首を傾げた。

 しかし、夏侯惇から身体を離そうとすると夏侯惇が腕を掴んでくる。


「来い」

「え……ちょっ、」

「関羽、幽谷は連れて行くぞ」

「ええ。夏侯惇、あなたが最後の頼みなの!」


 絶対に記憶を戻してあげて!
 夏侯惇に懇願するように言って、関羽は幽谷に大きく手を振った。夏侯淵もその隣で、少しばかりほっとしているようだった。



‡‡‡




「なん――――んっ!」


 夏侯惇という男に部屋へ連れ込まれて早々、幽谷は彼に口を塞がれた。
 目を剥いて抵抗しようとすると、夏侯惇の舌がねじ込まれて中を蹂躙された。

 嫌な筈だ。
 だって自分はこの男のことは知らない。
 知らない、筈なのに。



 力が抜けていく。



 意志に反した反応に幽谷は戸惑い抵抗を忘れてしまう。
 じくりと胸を焦がすような感覚に、何故か既視感を覚えた。

 どうして、どうして。
 頭の中に疑問符が浮かぶが、上顎をざらりと撫でられてぞわりと身体を強ばらせる。一番敏感な痣のある脇の下を撫でられて、鼻にかかったような声も出てしまった。何故、脇の下が弱いと知っているのだろう。


「……っは、」

「……身体は覚えているらしいな」

「何を……?」


 一瞬。
 何かが脳裏を駆け抜けた。
 何か……いや、光景だ。記憶に無い、懐かしい光景。
 その中に、彼を見つける。


「な、に」

「幽谷」

「……っ」


 また口付けられる。


「や、止めっ」

「断る。お前が俺のことを思い出すまでは止めんぞ」

「そんな、ぁ」


 何故だ。
 何故こんなに胸が五月蝿いんだ。
 何故、こんなに……身体が熱くなるんだ。

 記憶に無いのに。


 どうして、この感覚を知っているように思えるのだろう。


 まだだ。まだ、考えなければいけないのに――――。



 嗚呼、頭が溶ける。



●○●

 彼は記憶喪失になったことに怒ってます。若干八つ当たり気味。

 しかし、関羽は嬉しい反面複雑でしょうね。自分じゃ記憶が戻らなかったって。

 そして記憶が戻ったら夢主は関羽に土下座するでしょう。確実に。

 ちなみに記憶喪失の原因は最後まで不明です。



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