06:「これを着ろと…?」
06:「これを着ろと…?」 (曹操)
目の前に置かれた《それ》を見下ろし、幽谷は口角をひきつらせた。
目の前にある《それ》は、服だ。
――――女物の。
「これは……何ですか、関羽様」
「何って、服よ。女物の」
服の向こう側に立つ猫族の女性達――――その先頭に立っている関羽は、当たり前だとでも言いたげに首を傾けた。
「見れば分かります。私がお訊きしたいのはそういうことではなくて、何故私の前に置かれているのか、ということで……」
嫌な予感しかしない。
予想とは違うことを願いつつ彼女を見やれば、晴れやかな笑顔が返ってくる。
「猫族皆で仕立てたのよ。いつか幽谷が女らしく出来ますようにって」
そんな顔でこちらを見ないで欲しい。
そのような嬉しそうな顔をされてしまっては、断りたくても断れないではないか。
幽谷はじりじりと服から距離を取り、ばっと身を翻して駆け出した。扉から外に出て、村からも飛び出した。
「あっ、待って幽谷!」
幽谷は、主の関羽が呼んでも、決して立ち止まらなかった。
‡‡‡
遮二無二逃げていると、彼女は曹操の屋敷に至った。
ここまで来ればきっと関羽達も諦めてくれる筈だ。
ほっと胸を撫で下ろし、幽谷は匿(かくま)ってもらおうかと、屋敷に入った。
なるべく夏侯惇達に見つからないように客室に忍び込もうと気を付けていたのだが、丁度前方の角から夏侯淵が出てきてしまった。
慌てて足を止めると彼はぐっと顔を歪めた。
「おい、ここで何をしている」
「……」
「何故答えない。まさか貴様、曹操様の命を――――」
「……逃げているんです」
言いたくはないが、言わなければ話が面倒な方向にこじれてしまう。
渋い顔をしながら、幽谷は夏侯淵の問いに答えた。
夏侯淵は訝った。
「逃げる? 誰から」
「…………関羽様達からです」
「はあ?」
幽谷が関羽に絶対的な忠誠を誓っていると知る夏侯淵は、素っ頓狂な声を上げた。
幽谷が関羽から逃げるなんて、今まで見たことが無い。それによくよく見れば彼女にしては珍しく憔悴しきってもいるようだ。
だからつい、勘繰ってしまう。
「……何があった?」
「……それだけは、お許し下さい」
眉間を押さえて、幽谷は溜息をついた。それは重く、長く――――精神的な疲労の程が窺えた。
いよいよ気になった夏侯淵が更に問い詰めようと口を開いた。
だが――――その前に幽谷がはっと後ろを振り返ったのだ。
そして夏侯淵を押し退けて屋敷の奥へと逃げていく。
「あっ、おい!?」
あっという間に姿は見えなくなった。
「何なんだ一体……」
「あ! 夏侯淵!!」
「うわ! ――――って、貴様か!」
今度は息を切らした関羽だ。女物の服を大事そうに抱え、周囲をきょろきょろと忙(せわ)しなく見回している。
「ねえ、幽谷を見なかった? こっちに逃げてきたと思うんだけど……」
「……奴なら先程屋敷の奥へ逃げていった」
「そう。ありがとう!」
笑顔で走り出す関羽、夏侯淵は待ったをかけた。
「あいつは何を逃げているんだ。あの様子は尋常じゃなかったぞ」
「何をって……幽谷に服を着せるだけよ? 曹操がくれた土地に村も作ったし、落ち着いたから幽谷をもっと女らしくさせようって、皆で決めていたの」
「……」
何となくだが、納得した。
‡‡‡
幽谷は曹操の私室にいた。
訝る彼を無視して、天蓋付きの寝台に身を潜ませる。
「……何をしている?」
「隠れています。申し訳ありませんが、関羽様が来たら私は来ていないと言っていただけませんか?」
「理由は?」
「……言えませんが、何卒(なにとぞ)」
頑なに回答を拒絶する幽谷に、曹操は目を細める。
しかしやおら吐息を漏らすと、「好きにするが良い」と書簡に視線を戻すのだった。
それに、幽谷は安堵して身体から力を抜いた。これで、関羽をやり過ごせる筈だ。少なくとも、一時だけは。
関羽ならば、幽谷が曹操の私室に逃げ込むことなど容易に予想が付くだろう。幽谷と曹操の関係を後押ししたのは紛れも無い彼女なのだ。
関羽は、程無くして部屋に飛び込んできた。
「曹操、幽谷知らない!?」
「いや……今日は見ていないな」
幽谷の懇願に答えて嘯(うそぶ)いてくれた彼に曹操は安堵する。吐息を漏らそうと息を吸い込んで、はっと口を塞ぐ。
「幽谷がどうかしたのか?」
「実は……幽谷にこれを着てもらおうと思ったの。皆で作ったのよ」
ばさり、と音がする。
曹操の前でそれを広げたのだろう。
曹操が興味を持つとは思えないが……。
「……」
ふと、幽谷の隠れる寝台にやって来る。
まさかと思って逃げようとしたが、それよりも早く腕を掴まれて引きずり出された。
「幽谷! ちょっと曹操、騙したのね!?」
「幽谷が珍しく切羽詰まっていたからな。だが、気が変わった。屋敷の部屋を使うと良い」
幽谷は顎を落とした。
どうして!
問いたげに曹操を見上げるが、彼はグッと幽谷の背中を押して関羽に突き出した。
関羽は驚いていたが、みるみる喜色が表情を塗り替えていく。
「……っありがとう、曹操!」
「ちょ、関羽さ――――」
ぐいと腕を引っ張られて部屋を連れ出されてしまう。
主人だからと強く振り払えないでいると、曹操が関羽に声をかけた。
「関羽。着替えさせたら、連れてこい」
「……!」
「ええ、分かったわ。期待して待ってて」
幽谷はきっと曹操を睨めつけた。
されど曹操は鼻を鳴らして笑うだけで、もう助けてくれようとはしなかった。
‡‡‡
幽谷は踏ん張っている。
曹操の部屋の前で背中を関羽に押されるのを必死に踏ん張っている。
良家の姫程豪奢ではないが、きらびやかに着飾った幽谷は整ったかんばせを更に良く見せる。凛とした美しさの中に、少しばかりの艶かしさもあった。
我ながら改心の出来だと関羽は喜ぶが、幽谷は今の自分が気持ち悪くて仕方がない。
「幽谷! 曹操に約束したんだから……!」
「嫌です。関羽樣のご命令であろうと絶対に嫌です」
曹操にだけは見られたくない。
そんな思いから、幽谷は頑なに拒む。
だがこの応酬は無論扉の向こうにも聞こえている。
曹操が痺れを切らして扉を開けてしまった。
「なっ」
「……ほう」
青ざめる幽谷を見下ろしてくっと口角をつり上げる。
「どう? 曹操」
「随分と変わったな。服と化粧でこうも見違えるとは思わなかった」
「そうよね! やっぱり幽谷は綺麗なんだし、たまには――――」
「すいませんもう無理です帰らせて下さい」
曹操の態度に関羽は舞い上がる。
何となく危険な傾向に傾きつつある気がした幽谷はじりじりと横に退いた。
が、曹操にうなじをがっと掴まれて引き込まれる。
「あっ、幽谷!」
「すまないが関羽。今日は幽谷をここに泊まらせる」
「え。泊まるって――――」
「皆まで言わねば分からぬか?」
瞬間、関羽の顔が爆発する。真っ赤になって固まる彼女を、曹操は閉め出した。
「ちょっ! 関羽さ――――」
閉められた扉に手を伸ばすも、それを阻むように曹操は幽谷の身体を抱き上げて寝台に下ろしてしまう。……頭の奥で警鐘が鳴り響いた。
「そっ、曹操殿……!」
「たまにはこういった趣向も面白いな」
「ふっ、ふざけ――――」
抗議は曹操の口に呑み込まれる。舌が口内に侵入し、思うがまま蹂躙する。
だから嫌だったんだ。
幽谷は頭の中で思う。
銀糸を引いて離れていく曹操の秀麗すぎるかんばせを見上げながら、やっぱりこうなるのだと辟易する。
――――が、不意に曹操は離れてしまう。
怪訝に見上げると、曹操は口角をつり上げた。
「滅多に無い姿だ、あっさりと崩すのも惜しいと思ってな。暫くはそのままでいろ」
崩せば仕置きだ。
偉そうに言ってくる彼に、幽谷はこめかみを震わせる。
この人……、私の姿で楽しんでる。
ぎゅっと拳を握る。
同時に、もう二度と着るものかと堅く誓うのだった――――。
○●○
でも結局泊まる羽目になるのです。
からかわれ続けて逃げ出そうとするとは思いますが。
しかし……長い。
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