03:悔しくなる





03:悔しくなる(夏侯淵)



 幽谷は誰よりも強い。
 それは覆しようの無い事実である。

 しかし男として、夏侯淵はそれが許せなかった。
 愛した女くらい守りたいし、その女より弱いなんて彼の矜持が許さない。

 自分は夏侯惇にも及ばない未熟者。
 自覚しているからこそ幽谷との歴然とした力の差が、歯痒くて歯痒くて仕方がなかった。

 どんなに鍛練を積んでも、人並み外れた彼女には到底及ばない。どうすれば、幽谷に追い付けるのか……。


「くそ……!」


 今日もまた、夜遅くまで夏侯淵は汗だくになって剣を振るっていた。

 そこへ、一人の女がゆったり近付くのだ。


「夏侯淵殿」

「! あ……幽谷」

「もう夜も遅いわ。それ以上は止めておいて、帰りましょう」


 そろそろと歩み寄る彼女に、夏侯淵は焦燥に駆られた。

 幽谷は強く、美しい。
 自分もそれに見合う武を身に付けなければならないのだ。
 夏侯淵はぎゅっと握り締めた。

 幽谷は彼の手を見、色違いの双眸を細めた。


「どうしたの? 夏侯淵殿……また、変なことを考えているの?」

「変ではない!」


 口調荒く反論すれば幽谷は溜息をつく。

 呆れられたような気がして、舌を打って俯く。


「何を考えているのかは分からないけれど、あまり根を詰めすぎてはいけないわ」


 そっと夏侯淵の手を握る。

 しかし彼はその手を払った。
 この苛立ちは焦燥だ。幽谷に当たるのは間違っている。
 分かっているのだがどうしても彼女に苛立ちをぶつけてしまう。

 そういったことは今までに何度もあった。
 毎回幽谷は寛大に受け入れてくれて、むしろこちらの器の小ささを見せつけられる。

 夏侯淵とはそんなに年の離れていない筈の幽谷は何処か拗ねているような恋人の様子を訝(いぶか)った。


「本当にどうしたの? ……最近とみにあなたの様子がおかしいって、曹操殿も夏侯惇殿も心配しているわよ」

「……っ」


 幽谷の手が彼の頬を撫でた。
 今度は拒絶されなかった。


「……オレは、兄者達に心配されるようなことは別に何も」

「目が泳いでいるように見えるけれど?」

「っだから、何も無いとさっきから言ってるだろうが!」


 手を振り払い、夏侯淵は幽谷を押し退けた。
 これ以上彼女といると、理不尽な八つ当たりをしてしまいそうだったから、足早に部屋に帰ろうと歩き出した。

 が。


「……」

「……」

「……ついて来るな!」


 幽谷は無言で夏侯淵の後ろについていたのだった。


「だって心配だもの。関羽様にも、夏侯淵殿をどうにかするようにと言われているのだし」

「……関羽に言われたから、ここにいるってことなのかよ……」


 ぼそりと呟く。

 それは幽谷の耳にもしっかりと届いていた。


「違うわ。それは私が帰れない理由であって、私が帰らない理由にはならない。私だってあなたのこと心配しているのだから」


 夏侯淵は足を止める。

 幽谷も止まった。
 彼女の言葉は続いた。


「あなたが考えていることは、少しなら予想がついてる。どうせ私の武云々でしょう。そんなの気にしなくて良いのよ。私のは四凶としての力なのだから。あなたは人間として、力を付けていけば良いわ」

「……っ、それでは駄目なんだ!」


 夏侯淵は怒鳴った。
 駄目なのだ。それば自分の矜持が許さない。

 幽谷は片目を眇めた。


「私は、別にあなたに守って貰いたいとは思ってないわ」

「な……」

「私はあなたの傍にいられるだけで十分だもの。それに、私はずっと守る側だったから、いきなり守られてもむしろ困ってしまうわ」


 好きな人の傍らで得られる安らぎ。それは夏侯淵から教えられたものだ。

 夏侯淵に求めるのは、自分と共に生きてくれることのみ。それ以外は何も望んでなかった。
 確かに男として女より劣ると言うのは夏侯淵にしてみれば許せないことなのかもしれない。

 だが……幽谷は彼を強く見据える。


「私はあなたの武に惹かれた訳ではないわ。あなたが無事で、傍にいさせてくれたなら、私はそれで良いの。あなたが私の武に惹かれたのなら、もう文句は言えないけれど……」

「オレは…………ち、違う」


 夏侯淵は顔を赤らめて否定する。

 夏侯淵の価値観を変えたのは紛れも無い幽谷であった。その恩義には、これからもずっと頭が上がらない。
 そういった意味でも、幽谷は大事な存在であった。

 惹かれたのは幽谷の全て。
 時間をかけて見方を変え、猫族受け入れた後、夏侯淵の世界は変わった。
 その中でも幽谷は飛び切り美しく見えたし、気高く見えた。


 武人としての憧憬も勿論あった。

 されど、幽谷のちょっとした仕種に胸が騒いだりもして。
 幽谷を女として見ているのだと気付いたのは少し後だ。
 どうにか彼女をと夏侯淵なりに奮闘してようやっと恋仲にまでなれたのに――――。


「なら、良いじゃない」

「幽谷が良くても、オレが良くないんだ。兄者にすら及ばないオレは……まだ、」

「……」


 溜息をつかれた。


「馬鹿ね」

「う……」


 夏侯淵は咽を詰まらせた。

 幽谷は彼の頭を撫で、彼をじっと見つめる。


「私は、そうやって身体を痛め付けるような鍛練をして欲しくはない。お願いだから、戦場以外で私に心配をさせないで」

「………………すまない」


 絞り出した謝罪は本当に微か。幽谷にもやっと聞き取れる程度のものだった。

 幽谷は淡く微笑み、彼の頬に口付けてやった。

 すると彼は幽谷から離れてしまう。顔はまるで林檎のようだ。この暗闇でも手に取るように分かった。


「あら……」

「そっ、外でやるな!」

「そう言えば……そうだったわね。ごめんなさい」


 幽谷はくすりと笑った。からかうと、彼は可愛い反応をしてくれる。

 夏侯淵は幽谷を恨みがましく見た。
 彼女は、いつも自分の調子を崩してしまう。さほど年は離れていないだろうに、どうして恋人に弟のように接されなければならないのか。
 幽谷の態度に、夏侯淵は不満を持っている。

 だから――――だから、せめて何か一つでも彼女に勝るものが欲しいのだ。

 夏侯淵は深々と、溜息をついた。


「夏侯淵殿?」

「……何でもない」


 彼の吐息は、夜陰に溶け込んでいく――――。



○●○

 多分彼は鍛練止めない気がします。



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