02:観察してみる
02:観察してみる(夏侯惇)
幽谷は夏侯惇の私室にいた。
彼の報告書が終わるのを待って、手合わせをするのだ。
それまで暇なので、彼女は邪魔をしないことを約束して、ここにいるのだった。
夏侯惇は存外字が上手い。それに誤字脱字も夏侯淵とは違い、全く無い。
幽谷は字の上手い方ではないので、正直羨ましかった。
彼の手の動きを見ていた彼女はふと自分の手を見下ろした。
綺麗とは言えないタコだらけの手だった。
数日前、夏侯惇に想いを寄せている女官達に手が堅いと笑われたことがある。彼女らの手はとても柔らかで細い指をしていた。タコなんて一つも無かった。
今まで気にしたことは無かったが、確かに女性らしい手ではないとは思う。実際に比べてみると、関羽は勿論のこと、男である関定よりもよりも太い指だった。
こればっかりは仕方が無いが……夏侯惇とはどうだろう。
女官曰く、幽谷は女らしくなく、夏侯惇に相応の女とは到底思えないそうだ。
まあ、確かに幽谷は四凶であるし、生まれは平民、育ちは暗殺一家という経歴であれば、それも当然のことだろう。何処からか依頼があれば曹操や夏侯惇を殺すのではないかと思われてもいるようだ。そんなことはないのだと言っても恐らくは信じてもらえないだろう。
近々夏侯惇の見合い話があるとの噂も、最近浮上してきているとか。
騒動にならなければ良い。なれば、多分自分は身を引く。あまり迷惑をかけたくないし、その波紋が猫族に至るとも限らないのだ。
幽谷はふうと溜息をつく。
これで手を比べて、夏侯惇よりも指が太かったら少しへこむ。
拳を握って顔を上げ――――眼前に夏侯惇の顔があったことに仰天した。
「!?」
「どうした」
仰け反る幽谷に彼は訝る。
幽谷は取り繕うように笑って首を横に振った。
「い、いえ……もう終わったの?」
「ああ。後はこれを曹操様に持って行くだけだ」
「そう。なら、私は先に行っておくわね」
怪しむような夏侯惇からの視線を逃れ、幽谷は部屋を出る。
私らしくない、女々しいことを考えてしまった。
今まで気にしたことは無かったのに、今更負い目に感じてもどうにもならないじゃないか。
苦笑を浮かべ、幽谷は鍛錬場へと真っ直ぐ向かった。
‡‡‡
幽谷は、良くも悪くも人目を引く。
面立ちも整っている方だし、猫族――――特に関羽に対しての忠誠心は見習う者も多い。
反面、人並み外れた強さから、恐々とし、敬遠する者も少なくはなかった。
鍛錬場に佇む彼女には、本人が何をしていなくとも、沢山の視線が集まった。
それに気付いているが、もう慣れてしまったので幽谷は無視を決め込む。たまに喧嘩を売られるが、上手くかわしている。
されどそんな彼女は、これには気付いているのだろうか?
「なあ、幽谷殿は脱いだら意外とあったりして……」
「お前、毎回そんなこと言ってるよな。そんなに気になるなら、夏侯惇様に訊いてみりゃ良いだろうが」
「馬鹿言え! 夏侯惇様の恋人だぞ、そんなの訊いたら殺される!」
「だったら諦めろよ。見込み無いんだから」
幽谷が鍛錬場にいる時、いつもいつも彼女を遠くから観察している兵士がいる。彼は言葉からも分かる通り幽谷に密かに想いを寄せていた。
だが幽谷は夏侯惇の好い人なのだ。見込みは全く無くて。
せめてこうして遠くから彼女の一挙一動を観察している。隣で呆れる友人は諦めろと言ってくるが、ほいほいと諦められたら苦労は無い。
「ああ……綺麗だなあ、幽谷殿。もっと早く出会えていたらなあ……」
「出会えていたら、どうだと言うんだ?」
「そりゃ、何が何でも口説き落として――――え?」
今、友人ではない声がした。
何だろう……悪寒がする。
彼はゆっくりと振り返る。そして、ひきつった悲鳴を上げた。
「かっ、かかか夏侯惇様……っ!」
「貴様、新入りか」
「はっ、はいぃっ!!」
いち早く危険を察して逃げたのか、友人の姿は何処にも無い。
彼はぴんと背筋を伸ばし、冷や汗を垂らしながら友人を恨んだ。
夏侯惇は眉間に皺を寄せて、兵士を強く見据える。心なし、殺気を感じるのは……気の所為ではないか。
「も、申し訳ありませんでしたぁ!!」
兵士はすっかり色を失って、がばり、と頭を下げる。
すると、その時である。
「どうかなさいましたか、夏侯惇殿」
まさに菩薩の声である。
兵士は姿を見ようと顔を上げようとしたが、それよりも早く夏侯惇が彼の頭を掴んで下に押してしまった。ぐぎっと嫌な音がした。
「あの……今、」
「すまない、幽谷。遅くなったな」
「いえ、それは別に良いのですが……その方の首が今、」
「ああ、気にするな。こうして首を鍛えているんだ」
違う。
この人、俺に間近で幽谷殿を見せないつもりだ!
「それよりも幽谷、少し話があるのだが」
「は、はあ……」
そこでようやく頭への負荷が無くなって、手も離れていく。
兵士は安堵し、首をさすりつつ顔を上げた。
――――固まった。
「〜〜〜〜っ!?」
頭を鈍器で殴られたような気がした。
無理も無い。
何せ、夏侯惇が幽谷の掌に口付けているのだ。
さしもの幽谷も、これには驚いて、口角をひきつらせている。ほんのりと、頬が赤い。
「え……あの、か、夏侯惇殿? 正気……ですか?」
「ああ。先程、お前の手が堅いと、俺に不相応であるとほざいていた女官がいたのでな」
「……そ、それとこの行動に一体何の関係が……」
「お前にも、このことを言っていたそうだな」
幽谷の肩が微かに跳ねる。
夏侯惇は彼女のうなじに手をかけてぐいと引き寄せた。
……ああもう、地獄。
目の前で接吻を見せつけられて心はずたずただ。
誰かが、「頑張れ!」と声をかけてくれたが、もう頑張れそうにない。消えて無くなりたい。その辺の雑草に生まれ変わりたい。
「俺はお前だから愛した。それだけだ。お前の手も、何もかも、愛おしい。手放すつもりは全く無い」
「……あの……本当に大丈夫ですか?」
「ああ。では、手合わせをするぞ」
「あ、はい……」
幽谷は歩き出す夏侯惇に腕を引かれ、困惑気味に彼を見る。
兵士はこの世の終わりのような顔をして、その場に座り込む。
その肩を、戻ってきた友人が叩いた。
ふと、夏侯惇が兵士を肩越しに振り返る。
すると、ふっと勝ち誇ったような笑みを浮かべるのだ。
わざとか……!!
兵士にはどれだけの衝撃だったか――――想像するも哀れである。
○●○
頑張れ兵士!!
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