01:目が離せなくなる
01:目が離せなくなる(夏侯惇)
最近、どうも視界に幽谷が入り込んでくる。
いや不快では決してないのだが、一度気が付くと気になってしまう。
兵士の鍛錬の時にも、例え隅にいたとしても視界に入り込むのだから、どうにかしなければならないとは思う。これでは鍛錬に集中できないのだ。特に、夏侯淵や猫族(男)と話していたりする時は。
が、色恋沙汰にとんと疎い彼にはどうすれば良いのか分からない。
相談しようにも、誰にすれば良いのか分からないし、それ以前にし辛くてできない。
毎日のように一人悶々と悩んでいると、それが幽谷にも分かってしまったらしい。
「夏侯惇殿。最近様子がおかしいようだけれど、どうかしたの?」
夜。
夏侯惇の前で部屋の前で幽谷が壁に寄りかかっていた。
さっさと寝てしまいたかった夏侯惇は足を止め、気まずそうに目を逸らした。
「っ、あ、い……いや。何でもないが……どうした?」
「……そう。嘘ね」
幽谷は夏侯惇に近付くと、すっと両手で彼の手を取った。
手首より少しばかり下の方に出来たばかりの裂傷がある。今日の鍛錬で猫族の張世平と手合わせをした際、自分の注意力が散漫になってしまった所為で負った傷だった。
「あなたは、いつもならこんな失敗はしないわ。どうしたの?」
上目遣いになってもう一度、問いかける。
夏侯惇はうっと咽を詰まらせて、一歩後退する。
しかし幽谷は手を掴んだまま逃さない。
彼女が自分を心配しているのは分かる。幽谷は表情はあまり動く方ではないが、今の夏侯惇には未だ朧気ながらも分かるようになっていた。愛のなせる技だと曹操や関定に揶揄されたのは記憶に新しい。
色違いの瞳にじっと見つめられて、夏侯惇はとうとう折れてしまった。
「……部屋で話す」
「分かったわ」
そこで、手を離そうとした幽谷の手を握って自身の部屋へ入る。
幽谷を椅子に座らせて、夏侯惇は腕組みして壁に寄りかかった。
それから、最近の自分について躊躇いつつ、話していった。
幽谷は口を挟まずに黙って、それを聞いていた。
しかし、当の幽谷に話すなど、非常に恥ずかしい。
最終的には、夏侯惇は顔を真っ赤にして、俯き加減になってしまっていた。
「……つまり、私が夏侯惇殿の視界に入り、それが原因で集中が続かない、と」
幽谷は苦く笑っていた。どう言えば良いのか困っているようだった。
暫し気まずい沈黙が横たわった。
それを破ったのは幽谷である。
「道理で、ここ数ヶ月あなたの視線を感じると思いました」
「し、知っていたのか!」
「そりゃあ、あんなにちらちら見られていては……」
……穴があったら入りたい。
全身が熱くなる感覚に夏侯惇は、顔を手で覆って呻いた。何も言えなくなってしまう。
なんて我ながら情けない……。
目に見えて落ち込む恋人に、幽谷は困ったように笑うしかない。
「……そんな気を落とさずとも……」
声をかけるが、夏侯惇は俯いたまま顔を上げない。垣間見える顔は、まだ赤かった。
意外に積極的な面のある夏侯惇だが、たまにこういう姿も見える。
それを可愛らしいと感じる辺り、自分もこの武人には相当惚れ込んでいるのだろう。
幽谷は立ち上がって、夏侯惇の前に立った。
身体を屈ませて顔を覗き込む。
「それで、あなたの鍛錬に支障を来すのならば、私は鍛錬には参加しないけれど?」
「それは駄目だ!」
がばりと顔を上げられて、少しだけ退がる。
「俺の所為でお前の武をくすませる訳にはいかん。俺が俺自身をどうにかすれば良い話だ」
「……そう? でも夏侯惇殿、もうすぐ戦だろうと言っていなかった?」
「うぐっ!」
痛いところを突かれる。
言葉を詰まらせた。
確かに、今この曹操軍では戦の気運が高まっている。
近いうち戦が起こるのは間違いない。
このような状態ではとても満足の行く戦功を立てられる筈もない。
しかしそのことの為に幽谷の鍛錬を邪魔してはいけない。
そんな夏侯惇の葛藤を察したのか、幽谷はまた彼の手を取った。裂傷に手を這わせ、力を使う。
傷が仄かな光に包まれ、温もりに包まれる。
全身が弛緩するような感覚は、安堵に近い。
夏侯惇は徐々に塞がり消えていく傷を見つめ、肩から力を抜いた。
光が失せ、幽谷の手が離れるのが、少しだけ名残惜しい。
「他に傷は?」
「いや、無い」
「良かった」幽谷は微笑し、夏侯惇から離れた。
――――が、夏侯惇は何を思ったか彼女の手を掴みぐいと引き寄せる。
幽谷はそれに逆らいはしなかった。夏侯惇の胸に倒れ込み、抱き締められる。服を掴む。
そう言えば、彼に抱き締められるのは何ヶ月振りだったか。
お互いにずっと戦のことばかり気にしていたから、こうして恋人らしいことをするのは随分と久し振りだった。
愛おしい温もりに、幽谷は目を伏せる。全身から力が抜けた。
少し腕が緩んだかと思えば顔を上げ、見つめ合う。夏侯惇の顔が近付いてくるのに、自然と瞼は下りた。
唇が触れ合うまで後少し――――というところで。
『兄者! いるか?』
扉の向こうから聞こえた声に、夏侯惇が肩を落としたのは言うまでもない。
○●○
ただ夢主不足なだけ。
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