幽谷と夏侯淵




 夏侯淵は、四凶を見かけるなり声をかけた。


「おいそこの女、待て」

「はい。何か」


 白い十三支に手を引かれる四凶は立ち止まって真正面を向いたまま、夏侯淵に応じる。視界を閉ざされているので、夏侯淵がどちらにいるのか、把握していないようだった。
 白い十三支が夏侯淵を見上げ、四凶の影に隠れた。


「貴様が四凶と言うのなら、何故お前はそこまで生きている。慣例では、四凶は生まれてすぐに殺される筈だ」


 曹操の名誉の為、四凶についてだけは秘密にしなければならないと、夏侯惇から言い含められていた夏侯淵は、周囲を見渡し、小声で問いを投げかける。

 四凶はつと顎を少しだけ上げて、何かを思い出すように吐息を漏らした。

 ややあって、


「何故でしょう」


 と、疑問で返した。

 そのぞんざいな返答に夏侯淵はすっと眉を顰めた。


「何故、だと? ……オレをおちょっくっているのか?」


 四凶はゆるゆるとかぶりを振って否とした。


「私にも、分かりかねるのです。あなたとは出会ったばかりですので深くまではお答えできませぬが……。私自身四凶は生きてはならぬと知っておりましたのに、何故ああも彼女の言に囚われていたのか、不思議でなりませぬ」


 心底からそう言っているようではあるが、夏侯淵は納得しなかった。四凶の返答があまりに曖昧すぎて信じられなかったのだ。
 こちらが嫌々ながらも軍に迎えてやっているというのに、隠し立てするとは小癪な、と四凶にとっては理不尽なことを思った。
――――そうだ、彼女の言は嘘偽り、ハッタリだ。こちらの想像に働きかけて、同情を引こうとしているのだ。そうに決まっている。


「……貴様、己が死ななければならない存在だと自覚していたのなら、さっさと命を絶てば良かっただろう。何故今もなおのうのうと、しかも汚らわしい十三支と共に生きているのだ。四凶は、人間のなり損ないの化け物でしかない。嘘を並べて同情を乞うても、人間様が貴様なんぞに構うものか!」

「私は、同情など要りませぬ。私と同じ情を抱く者など、この世にもあの世にもただの一人として、おりはしないでしょう。それはあなたもご存知のことだと思いますれば、私の言の何をお疑いなのでしょう」


 一度、苛立ちを覚えると、彼女の毅然とした言動全てに苛々する。
 夏侯淵は一層眉間に皺を寄せた。
 ちっと舌を打つと、白い十三支がびくりと震える。四凶が怯える彼の肩を抱き寄せた。


「四凶は存在も何もかもが禍々しい。良いか? 貴様の存在自体が邪なまやかしなのだ。そんな化け物の言など、人間様が信用すると思うか? これ以上人間様の世界を汚すな。さっさと死ね。不愉快だ」

「あなたは、私の主ではございませんので、従うことは出来かねます。私の主である関羽様は、私に生きろと仰います。自ら命を絶つことは、許されません」


 前に向かって頭を下げる。仕方のないことなのだが、一向にこちらを見ない四凶に、夏侯淵は憤然と言い放った。


「ならば、オレが殺してやろうか」


 四凶は黙り込んだ。
 しかし、夏侯淵が更に言葉を続けようと口を開いた時、それを遮るように四凶がぴしゃりと。


「あなたに私を殺すことは出来ません。力不足だと思いますので」


 淡々と彼女は言ってのけた。挑発などの類ではなく、本心の言葉なのであろう。

 それ故に、その言葉は夏侯淵の矜持をいたく傷つけた。
 己の武が、兄のような存在にはまだまだ遠く及ばないと自覚している。
 だがそれを四凶なんぞに言われては、堪えきれない。冷静を失わせるには十分だった。
 激情が夏侯淵の中で爆発した。


「貴様ぁ!」

「!」


 夏侯淵は四凶に殴りかかった。彼女の頬に渾身の力で拳を叩き込む。


「あ……!」


 白い十三支が一際大きく身体を震わせた。
――――されど、多少よろめいただけで四凶は何も言わない。赤く腫れた頬を痛がりもしなければ、触りもしない。

 それどころか、


「劉備様、少々よろめいてしまいました。お怪我はございませんか」


 ただよろめいた四凶に少しだけ押されただけの白い十三支の心配をするのだ。


「ううん。でも、でも、幽谷が……幽谷のお顔が……」

「私ならば、大丈夫です」


 今にも泣きそうな白い十三支の頭を撫でると、今度はこちらを、夏侯淵をしっかりと《見た》。目隠しをしている筈だのに、何故か彼女と目が合っているかのような奇妙な感覚を得た。

 何色かも分からぬ双眸に射抜かれているような気もして、夏侯淵は鼻白んだ。


「申し訳ございませんが、主と世平様をお迎えにあがらなければなりませぬ故、私達はこれにて、失礼いたします」


 殴られたことなどさも無かったかのように、彼女は軽く頭を下げて、白い十三支と共に歩き出した。

――――あいつは、何だ?
 残された夏侯淵は、ただただ茫然と二人の背中を見つめる他無い。ぐるぐると、同じ疑問が激情を抑え、胸中をぐるぐると回った。
 あいつは何故痛がる素振りを見せなかった?
 オレは確かに渾身だった。手加減なんて一切しなかった。
 だってあいつは女である前に四凶、人間ですらない化け物なのだ。手加減をする必要など無い。
 痛みを、感じないのか……?



 答えの出ない疑問。
 それは夏侯淵の中で、幽谷を《化け物》へと一層近付けた。



●○●

 夢主誤解される之巻。
 言葉も選んだつもりが怒らせて殴られるという……。
 本当は彼女も滅茶苦茶痛かったのでした。

 今回劉備もいたので複数に入れようかとも考えましたが、そんなに目立っていないのでこちらに。



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