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12
ディルクは、記憶を手繰りながら東平のもとへ向かう。
階段を上がった後の冷たい空気はがらりと変わっていた。
たった二日の間に、こんなにも重たくなって――――穢(けが)れている。
これが里藤の所為だと、ディルクですら肌で感じ取れた。
竜を抑え込めるようになった影響で、こういった気配に敏感になっているのだろう。
こんなにも禍々しい気に覆われて……東平は無事なのだろうか。
いや、無事だと思おう。まだ、分からない。
ディルクは急いだ。身体が植物に叩きつけられても、気にならない。今まで気になっていたことが、気にならない。東平の死の刻限が分からぬことにばかり意識が向き、そんなものに構ってられないのだ。
急いで、急いで――――ふと、禍々しい気の中に別の異なる気配を見つけた。
それは……赤かった。
炎ではなく、ただ赤い。
気配に色などある筈もなかろうに、それは赤いと、ディルクには分かった。
それが近くに感じられ、足を止めた。
後少しで東平のもとへ辿り着く筈だったのに。立ち止まってはならなかったのに。
ディルクは、立ち止まってしまった。
「――――見ーつけた」
「……!」
ぞわり。
悪寒が走る。
背後。
背後に立っている!
ディルクは振り返った。
「良かった、一人でいてくれて」
「……っ」
戦慄した。
真っ赤な女がそこにいる――――。
‡‡‡
来た!
東平はその姿を見、己の死を悟った。
おぞましい姿だ。
禍々しい可視の妖気をまとい、振りまき、奇声を上げながら飛来してくる。
飛び方こそ優雅だが、見てくれも妖気も歪(いびつ)。気持ち悪い。
夕暮れの君は戻らない。
ならば一人で――――いや、元々一人で相対せねばならなかったのだろう。
夕暮れの君がここにいないのは、一人で大妖に挑まねばならぬのは、女神の夢のお導きなのだ。
「なるほど……確かに、酸与。人に恐慌をもたらす妖。儂の心までも、斯様(かよう)に掻き乱す」
しかし、この程度の恐れなど――――己の未熟さの為に息子達を失われた時に比べたら、比べるべくもない。
東平は全身に力を込め、身構えた。
今度こそは、護らねばならない。
二度と、二度と過ちは繰り返すまい。
あの重たき咎を背負った少年を……必ずや守り抜くのだ。
彼にも、未来はあるのだから。
さんよ、さんよ。
さんよ、さんよ。
東平に気付いた酸与が――――嗤(わら)ったように思えた。首をぶるりと振って彼へ向けて急降下を始める。
東平は筋肉を盛り上がらせ、地を蹴った。
――――その木偶(でく)の、哀れなることよ。
夕暮れの不在は、夢に描かれたことではなかった。
夢の中に砂月の存在は無い。
彼に誘引された夕暮れは、それを自覚し早くに戻るつもりだった。
だがそれを砂月が許さなかったのだ。
異分子によって乱された物語は、その歪みによって夢とは異なる展開を見せる。
異分子によって引き寄せられた展開により、東平のもとには別なる者が近付いている。
それがかの竜の少年よりも早いか遅いかは、砂月自身に分かることではなかった。
彼はただ、友人の為に出来ることをしているだけなのだから。
友人や、己の連れ回す者達以外のことなど、さほど気にしていないのだ。
‡‡‡
山茶花は、厄介な女だった。
胸元をはだけさせ、そこにぱっくりと開いた邪眼でディルクのうちの竜を乱す。
混血少女の邪眼と違い、彼女は一つだけだ。純血の邪眼は一つだけ。その一つの目に混血少女の左右の邪眼の力が収束されている。
その邪眼を見ているだけで、竜が騒いだ。過去の自分であれば……確実に支配権を奪われていた。早くも暁に感謝しようとは。
なんとしても捕まる訳にはいかない。
短剣で追いついてきた山茶花を斬りつけながら、ディルクは己の全力を出して走る。
この時の彼は、長旅の鍛えられた足のお陰で以前よりも速度が増しているのだが、気付いてはいない。
山茶花は遊ぶように距離を詰めたり離したりして、真剣に捕まえようとしない。
それもその筈。
彼女が欲しいのは竜だけだ。
ディルクという器は必要無い。山茶花自身が竜の器になるつもりなのだった。
そして、彼女ならディルクよりも竜を制御出来るだろう。
そうすれば楽になる。この重い業から逃れられる。
しかし!
それで自分の罪が消えはしない。
竜がいなくなったとしても、この身を重くする罪悪感も後悔も、消えやしない。
ならばせめて――――誰かが竜を使って新たな罪を作らぬように、惨劇を生み出さぬように、自分で管理しておいた方が良いではないか。
犠牲になるのも大罪人になるのも、自分だけで良い。
山茶花という女のことはどうでも良いし、嫌いだが、渡したくはなかった。
全てが終われば、ディルクは自ら再びの封印を請うつもりでいる。
こんなもの、目覚めたままであってはならないと、誰よりも分かっているから。
「……っ、貴様なんぞに、竜を渡してたまるか……!!」
「どうして? 楽になれるじゃない」
「悪用されると分かって渡せるか!!」
「だから、悪用じゃないんだってば。どうして分かってくれないのかなぁ」
再び接近してきたのを短剣で斬りつける。頬を裂いた。山茶花は笑ったままだ。
舌打ちしたディルクは、木の根を飛び越えようとして――――その向こうに兎が飛び出してきたのに咄嗟に近くの幹に爪を立てた。何本か爪と肉の間に木の破片が突き刺さり、中指の爪が剥がれた。
兎が慌てて逃げ出した場所に倒れ込み、負傷した指を掴んで悶絶する。
山茶花はいよいよ笑みを深くした。ディルクの肩を掴み仰向けにして覆い被さる。
艶然とした微笑みに――――それを埋め尽くすかのように浮かび上がった無数の邪眼に、悪寒がした。彼女の邪眼は、一つではなかったのだ。
嗚呼、死ぬ。
そう思った。
「やっと捕まえた……この間は暴走させて勝手に逃げちゃって……お陰で有間ちゃん達がこっちに来られなくなっちゃったじゃない」
ディルクは柳眉を顰めた。
「暴走、だと?」
暴走など、した覚えが無い。
そう言おうとして、頭に引っかかりを覚えた。
本当にそうだろうか?
何か忘れているような気がしないか?
ディルクはじり、と脳の隅がくすぶるような錯覚を覚えた。
覚えている?
いや、そんな筈はない。
暴走したならば忘れる訳がないではないか。
そんなこと――――。
「――――」
――――あっ、た。
全身が凍り付いたような感覚に襲われた。
『ア゛ああアァァぁぁっ!!』
『……恐怖に負け、再びその姿となったか』
自分の叫ぶ声。
東平の、憐れむ声。
鈍器で殴られたような気がした。
何故忘れていたのだろう!
雪崩れ込むように蘇る記憶に、ディルクは青ざめた。
……ああ、ああ、そうだ。
あの時だ。
自分を攫う闇眼教を、東平達が襲った時のことだ。
目の前で繰り広げられた殺戮(さつりく)から逃げられず、恐怖に負けたあの時――――竜と化したのだ、自分は。
その時は何故か誰も殺さずにすぐに戻った。
夕暮れの君が、何かをしたからだ。
嗚呼、何故忘れていたのだ!
そんな、大事なことを!
ディルクは茫然とした。
暴走した事実にではない。
その事実を忘れていたことにだ。
再び過ちを犯しかけたことを、忘れたことに、だ。
記憶が蘇り、あの時の恐怖も押し寄せる。忘れていたことを責めるように、胸を締め上げ理性を圧迫する。
ここにはあの者達はいない。
殺戮も無い。
けれど――――置いてけぼりにした当時の感情だけが、ディルクの意識を包む。
いけない。
これではまた……竜が。
制御しなければ。
制御しなければまた竜が――――
ディルクの思考を遮るように、山茶花が顔を寄せた。
「竜、頂戴?」
頬に当てられた白い手は雪のように冷たかった。
駄目だ。
竜を明け渡してはいけない。
分かっているのに――――恐怖と、過去の感情で、身体が震えて動かない。
僕は早く、東平のもとへ行きたいのに!
顔が近付き、ディルクは堅く目を瞑った。
――――その時だ。
「……っ山茶花ぁぁ!!」
少女の怒号が、空気を震わせたのは。
―X・了―
○●○
一方その頃、といった間章なので、結構急ピッチで進めてます。
これでやっと夢主サイドに戻れる……!
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