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「帰りなさい。もう里藤の化け物が来やがったらしい」


 突如世界が揺らいだかと思えば、暁は笑顔で頭を撫でてきた。背中を掴み、身体を反転させる。
 すっかり彼の不安定な話し方にも慣れてしまった。今では同じ話し方が続くと違和感を覚えてしまう程になってしまった。

 しかし、それよりも何よりも暁の言に怪訝に顔をしかめた。


「もう? 二日後ではなかったのか。これは夢だろう」

「夢……だけど、君は二日間眠り続けていたんだよ。アタシがそうしたの。夜明けと共に一度目覚めて現に触れさせるより、ここで出来るだけ継続してより確実に竜を制御させた方が良いと思いましてね。それを言わなかったのは、アンタを焦らせないたーめ」


 暁は片手を振って、こちらに「大丈夫」と声をかけた。


「お兄ちゃん大好きなだけの子が、思ったよりも優秀だったからね。後は君の心次第だ。今の時点なら、君が望めば竜は攻撃的にはならない」

「本当にそうなのか?」


 実質、やったのは精神集中めいたことだけだ。
 集中の高まった頃自身の内側に見つけた、精神の中にある反発し合う二つのうち片方が竜であり、それを怯えずに取り込もうと、まるで友人にするみたいに理解して受け入れようとすれば良いのだと言われた。
 そんな単純な――――と思ったのも一瞬。

 これはある意味生きているよりも辛く難しいことだった。

 こちらと違い、竜はこちらのことをよくよく理解していた。宿主を逆に支配せんと、機を窺いながらそうする為の術を模索していたのだ。
 向かい合うことを止めたくなるように、竜は弱い部分を列挙しては小馬鹿にして嘲笑。そして、辛辣に罵り責め立て――――甘美に誘った。
 誘惑に逃げ込みたくなるように誘導する竜は、自分よりも賢しかった。狡猾(こうかつ)だった。

 何度も負けそうになると暁が己の加護で包み助けてくれたけれど、それも竜が己の無力さをせせら笑う種を与えただけだった。
 竜の言葉に負けそうになる己に、暁に助けられる己に、苛立ちが募る。
 けれども焦りも無く、何度も何度も諦めなかったのは――――暁が放った言葉故だった。


『君が今、俺の望む領域にまで行かなければ……君は真実二度と東平に会えなくなるわよ』


 二日後、彼は死んでしまうから。
 せめて彼の死に際には立ち会いたいだろう?
 その言葉に、自分でも思わぬ程に躍起になった。

 東平に対してそれ程の情があったとは驚きだが、嫌ではなかった。

 理由は、竜と向き合う中で分かった。
 彼は時折、自分を最愛の兄とは違う目で―――息子を愛でる父親のような目で見ていた。
 それに戸惑いもあり、同時に嬉しくもあったのだ。まともな父親の情など知らぬ自分に、彼はこちらを竜だの危険だのと言いながら、ふとした時に父親のように護ってくれた。
 心の奥底ではそれが分かっていたから、今、せめて彼の死に際に間に合いたいと思うのだ。

 きっと東平は自分を己の子供と重ねているのだろう。あの目はその所為だったとしても、本当は嬉しかった。無条件に与えられる暖かな眼差しが、兄に会うことの赦されないこの咎人(とがびと)の身に向けてくれることに、孤独と罪悪感が癒された。

 罪を忘れてはならない。
 けれど存在していても良い――――。
 そう、言われていたのかもしれないと思うのは、自分の欲目かもしれない。
 誰かにそんな風に言われたかった。心の奥底では、そう願う自分がいた、否定しなければならないとずっとずっと押し殺してきた。

 それを暁には見透かされているのだろう。


「東平にお疲れ様だと言ってくれ」


 柔らかな微笑みで、送り出す。


「君が竜に負けずに生きていけることを心から願うよ。ディルク」


 名乗った覚えも無いが、彼が知っていてもおかしくなはない。

 ディルクは一度だけ振り返って、何も言わずに前を向いた。


「頑張ったお前には、俺様からご褒美をやるよ。……夕暮れや両親しか知らない、私の本来の姿だ」


 踏み出した瞬間、景色が変わる。

 そこは雪景色ではなかった。
 湖も、懐かしい城の屋根も無かった。
 あるのは周囲を埋め尽くす眼球。
 息苦しくおぞましい空間に、こみ上げるのは懐かしさだ。
 無数の眼球に見られているのは正直を言えば落ち着かないが、現実世界に戻ってきたのだと、足の感触から実感する。

 深呼吸してゆっくりと振り返れば、先程向かい合っていた暁が氷の中に封じられている。
 あの、混血の白髪少女の姿で――――。

 ディルクはその姿を見、目を剥いた。


「……これは、」


 封印されているのは、暁。
 けれども、そこにいたのは。

 竜だ。

 ただの竜ではない。
 ディルクの見慣れた姿のそれでもない。
 資料の中でしか見たことの無い、ヒノモトの、胴の長い竜だ。

 長すぎる蛇身に生えた足は三対。そのどれも爪が鋭く長く伸び、一つずつ黒い玉を握り締めている。
 透けるような蛇身には赤いラインが走り、特徴的な頭部にて炎のような文様を描く。髭に埋もれた大きなあぎとからは爪と同様の大きさの牙が伸びていた。
 後頭部から生えた爪も鋭利。

 けれどその目は、穏やかで美しい――――透き通った黄色である。

 魅取れたのもつかの間のこと。

 その姿は、すぐに混血少女の姿に戻ってしまった。
 短い時間でも、美麗なる姿は瞼に焼き付いた。
 ディルクは目を伏せ、背を向けた。

 暁が何の意図でディルクに真実の姿を見せたのかは計り知れぬ。

 けれども、これだけは分かる。分かっている。
 神の意図など、人間が推し量ろうとも不可能であるということを。

 きっと、これは気まぐれだ。
 自分が何か彼の気に入るような言動をしたのか、憐れんでいるのか。
 今となっては、分からぬことだ。

 ディルクはそれ以上暁に思考を向けるのを止めた。
 どうでも良かった。
 ただ、自分の受け取りたいように受け止め、やりたいことをするのだ。

 やりたいこと――――東平の死に際に立ち会うこと。

 その為に、ディルクは大股に歩き出した。
 開かれたままの扉を抜ける――――。



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