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「……堕ちたか、里藤」

「何?」


 雪の上に鎮座し、暁は天を仰ぐ。柳眉を顰(ひそ)めた。

 その剣呑な独白に少年は反応し、顔を強ばらせる。
 里藤が堕ちた――――その言葉の意味するところを漠然と悟ったのだろう。
 暁に向き直り、詰め寄った。


「妖になったのか、あの蛇男が」

「そのようね。……それにしても酸与、とは。また面倒な妖に変じてしまったものよな」

「サンヨ?」

「あれが現れると、その国は恐慌に揺らぐ。貴男も精神的に揺さぶられちゃうかもね。そうなれば、恐らくは竜の力が暴走しかねん。ぎりっぎりまでやれることはやっぞ。若造」


 ……いい加減、この神の不安定な口調にも慣れてきた。
 威風猛々しい男のそれから、無邪気な少女のそれに変わっても、もう精神が乱れることは無い。それがこの暁という神なのだと、受け入れた。慣れというものの恐ろしさを知った。
 自分は思いの外柔軟であったらしい。……ヒノモトの異常さに強引に柔軟になり始めた、ということなのだけれど。

 暁は腰を上げ、こちらを見下ろした。


「さて……外の警戒は東平と夕暮れに任せて、君はこのまま」

「……分かった」


 妖と化した里藤。
 ヒノモトの妖は、大小様々なモノをこの目で見てきた。
 どれもが目にしたことの無い不気味な異形であり、凶悪で獰猛な負の塊であった。おぞましいと言う他に無かった。
 今でこそ大量に出現し堂々と跋扈(ばっこ)しているものの、彼らは闇の中から機を窺い、人を襲っていた。
 ヒノモトの民は、いつもその危険に晒されながら生きてきたのだ。時にその術を持つ者に縋り、時に自分達の知識を使って魔除けのまじないを施したり――――彼らなりに、必死に知恵を絞って生き抜いてきたのだ。
 ただ東平に守られ、死体に震え上がっていた自分とは大きく違う。

 抗う力はある。竜という強大な力が、この身に秘められている。
 けれども強大すぎて操ることは出来ない。
 東平に与えられた短剣も、満足に振るえなかった。不真面目に剣術を学んでいたツケだ。

 仮に、自分が竜を意のままにどうこう出来るようになったとして――――妖に堕ちた里藤に対抗出来るだろうか。
 答えは否だ。
 自分は、もう里藤に対して恐れを抱いている。
 それは生き物として、本能的な部分であり、払拭しきれない厄介なものであった。
 里藤と相対する――――その様を想像するだけでも身体が震える。

 怖い。
 恐ろしい。
 あれに、自分は立ち向かえない。

 だからせめて、せめてこの身を竜に奪われ暴れ出さない為に。

 出来うる限りの悪足掻きをする他無かった。



‡‡‡




 来るのは――――明日の正午。
 夕暮れは麓に仁王立ちする東平に近付き、声をかけた。


「身体は保ちそうか」

「……恐らくは」


 隣に並んで彼の姿を見ると、胸の辺りは黒く汚れてしまっていた。黒血の所為だ。
 その量は尋常ではなく、夕暮れはしかし笑みを浮かべる。


「……予定通りの死を迎えそうだ」

「それは、有り難い。この命、夕暮れの君、暁の君、闇の女神の為に役立つのであれば」


 惜しくなど無い。
 最後まで言わずに東平は目を伏せる。一瞬、眉間に深い皺が刻まれる。が、目を開けた時にはその皺は消え、厳然とした大男の姿に戻った。

 東平の忠誠心は、やはり使える。
 最期まで役目を果たしてくれそうだ。
 無情ながら、彼女はそう思う。
 たゆたっていただけの彼の魂を現世に引き戻したのは、彼も夢の一部だったからだ。再び肉体を得、ここで果てる。その役目の為だけに、彼は現世に再び現れることとなった。

 東平は罪深き男だった。
 己の誓いを果たせず、守るべき者達を守れず、その悲しみから逃れる為に復讐に囚われ鬼へと堕ちた。
 鬼と化した彼を救ったのは、人間らしい死を与えたのは、彼と親しい間柄だった邪眼一族の男。
 人として輪廻に戻ることを赦された彼は、完全に闇の人間となった。闇の女神に心酔し、尊き彼女の為に、今、夕暮れ達の手足として動いている。定められた末路すら、受け入れている。

 東平は望むように動いてくれる良い駒だった。
 山茶花もそう。今や終焉の駒として申し分なく動いてくれている。

 だが――――たった一人、異物が入り込んでいる。

 砂月。
 招かれざる駒。
 未来を変えるやもしれぬ危険分子。
 暁は排除してはならないと夕暮れを咎めた。
 納得は出来ていない。
 無論、暁の思いは理解している。夕暮れとて、唯一の純血の邪眼を殺すのは忍びない。
 だが殺さなければ、女神の夢が壊されてしまうかもしれないのだ。

 終焉の物語を守る為ならば純血の邪眼一族など――――。

 ……。
 来ている。
 夕暮れは目を細めて南を見た。
 里藤ではない。
 来るべき者と、来るべきでない者達。
 夕暮れは舌を打ち、歩き出した。


「夕暮れの君」

「異分子を排除してくるだけだ」


 異分子が、異分子を連れてきている。
 嗚呼、何故そこまでして邪魔をする。
 純血たるなら分かるだろう。
 我らが母である闇の女神の夢は守られるべきであると。

 それが何故分からない。
 苛立ちにささくれ立つ心中に、周囲の空気が不穏に揺らぐ。
 夕暮れは、駆け出した。

 彼方より、こちらに向かって歩いてくる、彼らに向かって。

 苛立ちを殺意に変えて、夕暮れは猛然と異分子へ突進した。

 それが、異分子の最たる者によって導かれた行動であるとも知らずに――――。



 この物語は今、誰の掌の上で進んでいるのか。
 それは誰も、理解しているようで、分かっていないだろう。



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