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※注意



 ごぼり。
 吐いたそれは白銀を闇色に汚す。

 墨のような血に、田中は深呼吸を繰り返した。
 自身に流れる黒き血は、己が人でないことを知らしめる。己の《期限》を知らしめる。

 ……分かっておるわ。
 田中は誰にともなく呟いた。

 この身はもうじき朽ちる。
 《だろう》などと、希望めいた推定の言葉は付かない。
 それは必定なのだ。
 再びこの世に喚ばれた時点で、もう分かっていた。

 自分は傀儡(かいらい)なのだ。
 尊き女神の見た夢を正確に動かす為の。
 故に滅びる時も、夢に定められたこと。
 この微かな懐旧の念も、また――――。


『父さん!』


 不意に、聞こえた声は幻聴だ。
 無邪気に響く高めの少年の声は、現世に喚ばれてよりずっと田中を責め立てた。

 守れなかった大事な者達。
 こんなにも愛おしいのに、この手で抱き締めて守ってやれなかった者達。
 彼の身を心を冒す大罪が聞かせる幻聴は全てが無邪気だ。
 まるで近くで遊んでいて、自分を誘っているかのようだ。


『父さん!』

「……すまぬな」


 何度謝罪しただろうか。
 ……分からない。
 けれど、それでも大罪を償うには全く足りぬ。
 まだ、まだ重い。
 自分の犯した罪は、もっともっと重い。

 だって、彼らはもう自分のもとに戻ってはこないのだ。

 田中は奥歯を噛み締め、よろりと立ち上がった。口内に残った黒血を吐き捨て、山道を歩く。
 残るは二日。
 二日だけ。
 《期限》が来るまで、自分はあの岩屋には戻るまい。
 もしあの少年の前で吐血したならば、この異常さにますます困惑するだろう。
 それに――――不器用に気を遣うかもしれない。

 田中は歩く。
 弱り始めた身体を自覚しながら、来(きた)る大妖に備え。
 嘗(かつ)ての愛する者達に責め立てられながら――――……。

 己の二度目の破滅に向かって、歩いていく。



‡‡‡




 ざわり、と身体の中で蠢くモノがいる。
 それは動く度に凄まじい快楽をもたらした。
 女をいたぶって犯すよりも強く心地よい快感にとろけていく自我は、大きく開かれたその口に呑み込まれ、噛み砕かれる。

 理性は壊れ、本能は融合し。

 里藤は里藤ではなくなっていく。
 だが、そんなことはどうでも良かった。
 気持ち良くて、気持ち良くて、気持ち良くて。
 ただただそれだけだ。
 気持ち良すぎて他のことなど考えられない……考える必要性を全く感じない。
 元々、もっともっと強い快楽に浸りたくてあの薬に手を出したのだ。それで得た快楽で壊れてしまうのならば本望だ。

 ……いや、壊れた先の、人間では得られない快楽を求めている。
 身体を別のモノに作り替えられる凄絶な快感に身を任せながら、更なる快感を追い求める。

 腕はいつの間にか左右それぞれ二つに分かれ皮膚を失い肉が殺げ骨が異様に伸び、分かれ、分厚く羽毛が生えた。
 首も細く伸び視界も一気に広くなる。
 足も、気付けば三本の鳥のそれに変わっている。
 変わってゆく。
 変わってゆく――――。


 人間が、妖に、変わってゆく。


 笑い声も醜く、聞くに耐えない。さんよ、さんよと血でも吐いているかのように醜く嗤(わら)う。

 もうすぐ終わる。
 もうすぐ、もうすぐ――――もうすぐ終わってしまう!
 最上の快楽が鎮まっていく。
 まだだ、まだ味わっていたい。
 納めるには惜しい。
 こんな快感、その辺の女をいたぶるだけでは得られない。
 もっと、もっと味わわせてくれ。
 まだ終わるな。
 終わるんじゃねぇ!!
 怒号はしかし、奇怪な叫びに変わるだけだ。

 その声は部屋の向こうにも届いただろう。
 たまたま通りかかかったらしい女中が、襖の向こうから怪訝そうに問いかける。


『もし、里藤様。如何なされましたか。妖を使役でもされておられるのですか』



‡‡‡




 返る言葉は、さんよ、さんよと醜い。
 ……里藤様のお声ではないわ。式神か何かかしら。
 里藤の状態を確かめようとしたのと、好奇心が働いたのとで、女中はややあって、ゆっくりと襖を開いた。


「失礼致します、里藤さ――――」


 ま。
 彼女は最後まで言うことが出来なかった。
 何故なら、その姿を見た瞬間頭を鷲掴みにされ悲鳴を上げる間も無く頭を丸飲みにされ首を噛み千切られてしまった。
 先日この城に仕えるようになったばかりの十六の生娘は、首を失い、血を噴き出しながらだらりとその場に倒れ込む。

 彼は首を呑み込むと――――六つの目を笑みに歪め服を噛みびりびりと破った。
 露わになった乳房を噛み千切り、美味そうに喰らう。
 うっとりとした怪鳥は翼を広げ、生娘の身体を気の済むまで味わい尽くす。


 そして――――更なる獲物を求め部屋を破壊。人間達に襲いかかる。


 このすぐ後に、王城は大恐慌に陥った。
 その怪鳥にすでに里藤杵吉の自我は無く、人間の血肉の甘美さと断末魔にただただ歓喜する。
 逃げまどう人間達を喰らい、彼は王城の外へと四つの翼を広げ飛び立つ。


 さんよ、さんよ。

 さんよ、さんよ。

 さんよ、さんよ。


 その姿を見た城下の誰もが、気が狂ったように恐れ戦(おのの)いた。



 その状は鳥にして蛇の如(ごと)。四つの翼、六つの目、三つの足を持つ。
 名は酸与(さんよ)。
 現れた国に恐慌をもたらすモノなり――――。



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