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飛び出した巨大な獣を一殴りで頭部を破壊する。
びちゃ――――乾燥した地面に落ちたそれは多分に水を含んだ汚泥のように、周囲に飛び散って黒い泥溜まりを作った。
ぐねり、ぐねりと蠢くそれに、彼の背後で麻布で全身を覆い隠した少年がひきつった悲鳴を上げる。数歩後退するのを振り返って眼差しで制した。
そうしつつ、蠢く汚泥に片手を尽き出した。
すると波打っていた汚泥は動きを止める。地面に浸透していく。
彼は――――田中東平(とうべい)は少年を振り返り歩き出した。少年の脇を通り過ぎて、「行くぞ」と。
少年は忌々しげに麻布の下から田中を睨めつけ、渋々従った。
枯渇しひび割れた荒野を進む。
ほんの半月前まで、ここは鬱蒼と生い茂る大森林だった。神の住む場所と昔から尊ばれ、人々の崇拝を集めた。
けれどそれも今では寂れ生き物の住めぬ土地と成り果てた。
昔は大森林を歩いては神々と対話をしていたものだが、その神々すら全て死んでいる。
このヒノモトには、今、どれ程の神が生き残っているだろう。
田中と親しくしていた者達は、もうほとんどが異変によって狂い、妖(あやかし)に堕ちてしまった。元々の神同士が邪に堕ち共食いを始めている。
太極変動の影響は、生き物に限ったものではないのだった。
このように恵みが失われ飢えた大地も急速に広がりを見せている。たった半月でこの有様だ、近々飢饉に見回れるだろう。
田中は今を憂い、昔の姿を追想しながら、寂しい荒野を歩いた。
少年は感想に凸凹した地面を歩きにくそうにしながら、懸命に田中についてくる。温室育ちの身の上では、ヒノモトの悪路などは身体に余程堪えるらしい。ここに来るまでに、何度か体調を崩していた。
「……っおい、待て!」
「ここで休めば追っ手に容易く見つかろう。この荒野を抜ければ」
取り付く島も無く、田中は苦行を強いる。
少年は悔しげに呻き、麻布を剥いだ。灰色の髪はぼさぼさになり、粗末な農民の服に着られているみすぼらしい様だった。
「何故僕がこんな目に遭わなければならないんだ! カトライアで無理矢理に目覚めさせられ、小競り合いのさなかにお前に連れ出され、人も歩けぬ過酷な場所ばかり歩かせられて……!!」
「それはぬしが化け物故だ」
冷たく告げ、田中は周囲の様子を見渡す。
化け物――――その言葉に、少年はうっと言葉を詰まらせた。呻き、視線を逸らす。
「ああ、そうさ。……僕はどうせ、化け物さ」
「自覚があるだけ良い。ぬしという化け物が暴走すれば、この国は更に異常を極める。ぬしにはその竜を抑えつけながら、追っ手を避けてもらわねばならぬ」
「……」
少年は目を伏せ、奥歯を噛み締めた。
けれども気を取り直したように、
「トウベイと言ったか、お前」
「ああ」
「お前は何故僕を闇眼教から助けた。あの時、お前は五大将軍の者と共に、僕を奪いに来たのではなかったのか」
「五大将軍の位は、ただの蓑に過ぎぬ。別なる目的の為に主を連れ出したまでよ」
「目的とは何だ」
「さてな」
田中はふと、足を止めた。
周囲を見渡し、麻布を被るように指示を出す。
そうして、その場に片膝をついて深くこうべを垂れたのである。
困惑する少年を余所に、重厚な声で言う。
「今のところは、滞り無く」
「――――ああ、ご苦労」
「なっ!?」
少年がぎょっとしてその場を飛び退く。身構えて、田中が持たせた細剣を抜き構えた。
それを、田中は諫めるでもなく片膝をついたまま向き直った。
少年の立っていたその向こうに、《彼女》はいた。
長い黒髪は艶めき、風に揺れさらさらと音を立てる。血のように赤い双眼と、同じ程に赤く扇情的な瑞々しい唇は蠱惑な笑みに歪む。
少年は彼女に見覚えがあり、警戒心から身体を強ばらせた。
田中と、蛇のような男と共に、少年を連れる闇眼教徒を襲った五大将軍の女だ。奇術にて何人もの教徒を近付かずして身体を風船が割れるように破裂させていた。あの時飛び散った肉片が頬に当たった瞬間の感触が鮮明に蘇り、全身が悪寒に震えた。
赤目の女は嫣然と微笑み、田中に声をかけた。
「では、北を目指せ。我が寝床、邪眼の力の古巣へ。間違えてはならぬぞ。邪眼の古巣ではなく、邪眼の力の古巣だ」
「心得ております」
少年は不可解そうに柳眉を顰めた。
言っている意味が分からない。
邪眼の古巣――――邪眼の力の古巣。
一体、何が違うのか。
「おい、何を言っている? 邪眼の古巣、邪眼の力の古巣と言うが、同じではないのか」
「否。力は我が兄弟。邪眼は監視の眼。生まれ同じも異なりし者よ」
「……僕を馬鹿にしているのか?」
「否。其の学が足りぬだけのこと」
口調が変わり、揶揄される。
何なんだ、この女は――――。
「否。我らに性は無し」
「!?」
「末端の儂らに性別は無い。必要無し。姿も無し。ただ、母と父に似るのみよ」
赤目の女は転がすように、歌うように言う。
少年は心中の疑問を口にした覚えが無かった。気味が悪くなり、警戒心はより濃くなっていく。
田中はそれを咎めもせず、赤目の女はそれを気にした風も無かった。
彼女はこちらに背を向け踊るように跳ねながら歩き去る。
――――突如、風景に溶け込んだ。まるで水に黒のインクを一滴落としたかのように。
少年は弾かれたように田中を見上げた。
「……っおい! 何なんだあいつは! 僕よりも化け物地味ているじゃないか!」
「こちらでは常識の範囲内の現象だと前にも言うたろうに、今更喚くな。行くぞ。北へ行くとならば防寒具を買わねばならぬ」
「おい!」
田中はにべもなく歩き出した。女の指示に従うらしい。
何なんだ、こいつらは。
僕を一体どうしたいのだ。
徐々に田中にも警戒心は強まり、少年は広い背中を睨め上げた。
しかし、彼について行くのは彼以外に頼るものが無いからだ。至る所で可視化した化け物が襲いかかる。人と獣が融合したモノだっている。
とても一人で、このおどろしき異国を逃げ回ることは不可能であった。
少年はやむなく、田中を追いかけた。
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