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「久しいな、イサ」


 壁に寄りかかる彼を目の前に、鯨は憮然と腕を組む。珍しく嫌そうに顔を歪めていた。 

 彼は、揶揄(やゆ)するよう咽の奥で笑った。その態度は、鯨に対して親しげだ。

 鯨は舌を打って顔を背ける。
 雪深い夜遅く、街中は人気が全く無い。当然だ、氷点下の中誰も歩きたくはない。
 それ故に彼はここに鯨を呼び出したのだった。鯨に強引に教えさせた術を使って。


「用件は何だ。さっさと言え、そして消えろ」

「そう言うな。少し協力して欲しいだけだ」

「断る」


 彼は肩をすくめ、苦笑する。
 けれども構わずに頼みたいことを話し始めてしまう。誰も了承していないのに、勝手に協力すると決めつけていた。

 鯨は忌々しそうに彼を睨めつけ、後頭部を掻いた。彼のこの強引な性格は変わらない。うざったいったら無い。
 こいつ……後で一発殴ろう。
 そう、心に決めた。



‡‡‡




「……ベルント?」


 有間はティアナの言葉を繰り返した。

 紅茶を飲み、ティアナはやおら頷く。物憂げな顔で有間を見つめてくる。
 朝早くから沈痛な面持ちで有間の部屋にやってきたかと思えば、彼女は唐突に切り出した。


 ベルントが捕らえられている牢屋に行きたいと。


 ティアナの話によれば、ベルントは今まで一切の食事を摂ろうとしていないらしい。
 まあ、それも有り得ないことではないだろうなあ、と有間自身思ってはいたので大して驚きはしないけれど、ティアナが彼に食事を摂ってもらいたいと思うとは。
 彼女の性格を考えれば当然の行動かもしれないが、処刑間近の人間にそんな残酷な情けをかけるのはどうなのだろう。
 マティアスは殺したくない、と思っているだろうが、それでは事態は収まらない。情だけで王政が滞り無く動かせれば誰も苦労はしない。

 為政者であるのなら、決断に迷うことは許されない。
 誰に漬け込まれ、誰に足下を竦まれるか分からない立場なのだ。
 その時、確実に正妃のティアナにも危険は及ぶ。人質として捕らえられるならまだましだが、最悪殺されるだろう。

 ……まあ、そうなったら自分がどうにかするつもりだけれども。


「ベルントの本心が知りたいの」

「本心ねえ……単純にマティアスの為に動きたいだけってんなら、うちは行かない方が良いと思うよ」

「マティアスにとって、今の彼が在るのはベルントのお陰。でもね、アリマ。私がベルントと話したいって言うのはマティアスの為だけじゃないわ。私にとっては皆を苦しめた人だけど、どうしても引っかかってることがあるの」


 ティアナは目を伏せ、胸の前で拳を握る。


「マティアスに剣を向けられた時、私にはベルントがほっとしているように見えたの。……マティアスを支えてきたベルントも本当の姿なら、私、彼と話をしてみたい。彼が何を考えているのか、彼が本当はどんな人なのかを私自身が知りたいの」


 マティアスの為だけではなく、私自身の本心でもあるわ。
 ティアナは目を開け、有間に言う。

 有間はクッキーを口の中に放り投げ、片目を眇めた。


「……うちにそれを話しに来たのは、ついてきて欲しいからだよね」

「うん。……アリマには痛い記憶を思い出させちゃうって分かってはいるんだけど」


 確かにベルントには邪眼を片方殺された記憶しか無い。
 会いたいか会いたくないか、正直な話し合いたくない。
 だがその話を聞いてティアナを一人で行かせるのも何だか憚(はばか)られて。

 有間はベルントに貫かれた方の手を一瞥、大仰に溜息をついた。


「……良いよ。ただ、口論になっても知らないから」

「口論――――は困るけど、ありがとう。アリマ」


 ティアナは安堵した風情で微笑んだ。

 しかし、有間は彼女から目を逸らし、


「ただ、うちの意見を言わせてもらうならベルントに食事の件は言及しない方が良いと思う」

「え……」

「ベルントのしたことは末席とは言え王位継承権のあるディルク王子を利用した反逆。事実マティアスも死にかけた。それだけの罪を背負って、赦免(しゃめん)される訳がないだろ? 赦免すればそれはただのマティアスの私情だ。その下にいる者達も納得しない。新しい王への不審が早くも芽生える。マティアスもその点は分かってる筈だ。なら、自分で勝手に死なれる前に、さっさと処刑するべきだと思うよ」

「でもマティアスは、ベルントが裏切ったなんて思いたくないって、まだ」

「それが私情だって言うんだ。ティアナ。うちらはただの庶民。王政なんてまるで分かりっこないド素人だ。でも、これは分かるだろう? どんなに優れていても、実際国を支えるのは王じゃない。国を為すのは王じゃない。民だ。民から不審を抱かれた王は終わりだよ。そりゃあ、王も人間だ、迷っちゃいけない訳じゃない。が、だらだら悩んで良い訳でもない。マティアスもそれを覚悟している筈だろう。うちが幼少時ティアナみたいな生活をしていないから、言えることだけどね。自害させるよりも先に処刑をしてしまえって。反逆者が一人死ぬ時期くらい、別にどうでも良いって思える」


 ただ、今ではそれにも苦虫が胃の中を這い回ってしまうけれど。
 有間は肩をすくめ、


「王って言うのは、一種の生け贄だよ。国を率いる者はうちら庶民みたく自由に生きられない。国の為を思ってやったことは賛否両論分かれ、必ず誰かから糾弾される。最善を尽くしてもそれは惨いと周囲に恐れられることもある。それでも、国の為に最善の選択肢を決断していかなければならない。ティアナは、そんな存在を一生支えなきゃいけない。命の危険に晒されながらね。うちではもう助けられないかも――――いや、うちが先に殺されるか。邪眼だし」

「そんなこと……」

「楽観はしない方が良いよ。本当に覚悟出来ているのか、見つめ直した方が良い。……あまりティアナにもかまけてられないだろうしね」


 最後はぼそりと、ティアナには聞こえない小さな声で呟いた。

 頭によぎるのは、真っ赤な髪した死人の笑顔。



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