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「……あの人、魔に堕ちたよ」


 部屋を出ると同時に有間は鯨に告げた。
 扉を潜る時にでも交替したのだろう。こんなに頻繁にスムーズに交替出来るとは驚きだが。

 鯨は有間の言葉に短く頷き、何も言わずに歩き出す。

 それを冷たいとは、思わなかった。
 ただ、彼の困惑が濃く感じられてらしくないとは思う。
 母親に対して彼が何か思うところがあるのだろう。見て取れる程の困惑が、少し痛ましい。

 カリャンはこれで良いと言った。
 だが本当に、これで良いのだろうか。
 ティアナは釈然としないモノを感じつつ、有間に促されて螺旋階段に足をかけた。



‡‡‡




 誰もが寝静まった頃に、その音色は響いた。
 馴染み深い旋律と妖しく、そして少しの寂寥感を伴わせたその音色に、有間は目を伏せ二人掛けのソファの真ん中に座り込んでいる。足を組んで耳を澄ませた。

 ソファの背に寄りかかるのはアルフレート。無表情に、夜に浮かぶ月や星々を凝視していた。

 ふと、有間が動く。
 目の前のテーブルに置いた闇二胡を手に取り、弓を摘んだ。解いた太股に載せてすっと引く。
 何処からか聞こえてくるその旋律に併せて奏でる。拙(つたな)いが、構わない。

 アルフレートはそれを一瞥しただけで、すぐに視線を夜空へと戻す。

 これは弔いだ。
 誰が誰に向けたものであるかなど、考える必要も無い。
 闇二胡を扱える人間なぞ、限られているのだから。


「……何を、意地張ってるんだか」


 ぼそり、有間は独白する。それは音に掻き消され、アルフレートの耳にも届かなかった。
 流れてくる音色に併せて音階を調節しながら有間はそれが途絶えるまで奏で続けた。

 アルフレートも、彼女が動きを止めるまで夜空を見上げ続けた。



‡‡‡




 いつ振りだろうか。
 この俺が、闇二胡を奏でるのは。

 恐らくは初めてだ。
 誰かに歌を捧げるのは。

 気まぐれだ。
 これはただの気まぐれ。
 それ以外に何の意味も無い。

 鯨は閉じられた拷問部屋の扉を前に、己に言い訳をしながら闇二胡を弾き、歌を紡いだ。
 歌と言えども言葉らしい言葉は無い。赤子のように母音を伸ばしたり切ったりするだけだ。
 けれどもその、古より口伝された歌には意味がある。

 カリャンもきっと佐波から聞いていたであろう、死者を冥府へ送り出す言葉無き歌だ。邪眼一族が壊滅する前も、逃げているさなかであろうと、短縮してでもこの歌だけは欠かさなかった。

 本来これは家族総出で演奏せねばならない。だが、カリャンの身内と言えば鯨一人。
 だから、これは伝統的な形式に従っているだけなのだと、胸を満たす苦虫の群を無理矢理に押し潰す。
 そうしなければと感じて闇二胡を手に取った自分に気付かないフリをする。

 歌い終わって闇二胡を置いた鯨は、背後に気配を感じ肩越しに振り返った。


「……いつからそこに」


 低く問いかけると、螺旋階段の一段に腰掛けていた金髪の少女は背筋を伸ばして声高く謝罪した。……謝罪が欲しかった訳ではないのだが。

 少女は――――ティアナは、立ち上がってドレスの埃を払うと、鯨の隣にまでやってきて腰を下ろした。


「マティアス殿下は」

「憎い男にそっくりな自分がいると、きっとカリャンさんが安らかに逝けないだろうと」

「……そう、か」

「それ、持ってみても良いですか?」


 鯨は無言で闇二胡を差し出す。「有間のとは違って重いぞ」と言ってやれば、案の定うっと呻いた。しかし、抱き締めるように持ってしげしげと眺め下ろす。


「さっきの音色、これだったんですね」

「ああ」

「でも、さっき一緒に奏でてたアリマのとは違うみたい……」

「有間が闇二胡を?」

「え、気付かなかったんですか?」


 全くだ。
 きょとんと瞬きするティアナに首肯すると、彼女はふんわりと微笑んだ。


「じゃあ、それだけ熱心にお母さんのことを見送ってあげていたんですね」

「……いや。別のことを考えていた」

「別のこと?」


 鯨は何も言わずに、地下室の扉を見やった。
 扉は、もう施錠されている為開きはしない。扉を開けたとしてもこの向こうにカリャンはいないのだ。
 じっと見つめていると、ティアナが控えめな声で鯨を呼ぶ。


「私が言うのもおかしいとは思うんですけど、ここには私しかいませんから、泣いても良いんですよ」

「……」

「今のイサさん、無表情だけど、何処か泣きそうな顔をしています。本当は、カリャンさんに対しての態度だって本心じゃないんでしょう? アリマやカルマだって、分かってると思います」

「……」


 鯨は、ティアナに視線を戻し、ふとその肩を掴んだ。


「……例えばの話だ。俺がティアナ殿の身体を解剖したいと思えば、今すぐにでも押し倒して生きたまま切り刻むだろう。母親に対しても、平気でそんな真似が出来る。邪眼と魔女の混血というのは、そういう人種だ」


 ティアナはひゅっと息を呑んだ。見る見る身体が緊張していく。恐怖に強ばる顔が、何故かおかしかった。


「有間は狭間の忘れ形見であるが故に保護しているだけのこと。知識欲しか無い俺が、情を抱く筈がない」

「イサさん……」


 ティアナが恐怖から一変、痛ましげに顔を歪めた。
 肩を掴む鯨の手に己のそれを重ね、瞳を揺らしながら問いかける。


「アリマを独りにするつもりなんですか?」

「あれはもう孤独ではない。アルフレート殿下や、ティアナ殿がいる」

「でも、アリマはあなたのことをお父さんだとずっと思ってました。カトライアではずっと死んでるんだよって割り切ってたフリをしてたけど、本心では寂しかったんだと思います。今は本当のお父さんじゃないって戸惑ってるけど……やっぱりアリマにとってイサさんはお父さんです。お父さんじゃなくても、お父さんになってずっとアリマを守っていたのはイサさんだから。カリャンさんも、お父さんの顔になってたって言ってたじゃないですか。ハザマさん達だって、アリマのお父さんになっては駄目だなんて、きっと思ってません」

「言うは易しだ。狭間達のことなど知りもせずに憶測で語らないでいただきたい」


 ぐにゃり。
 ティアナの顔が歪む。
 彼女は優しい。本当に、お人好しだ。


「どうして、自分に情が無いように振る舞うんですか? イサさんだって自分のことが分かってる筈です。アリマのこと本当は、」


 ティアナの咽を掴んで無理矢理黙らせる。力をさほど込めていないので苦しくはないだろうが、彼女は驚いて声を詰まらせた。


「うぐっ」

「……俺が情を持てば、情を向けた者が俺の身代わりになるかもしれない」

「……っ?」

「それを分かっていて、情など認められる筈がない」


 鯨はティアナを解放し、謝罪の代わりに頭を撫でる。闇二胡を取り上げた。


「早く休まれた方が良い。有間のことで、精神的にも疲労があるだろう」

「い、イサさ――――」


 ティアナを視線で黙らせ、鯨は無言で螺旋階段を上がる。


 脳裏に浮かぶのは、自分の宿命によって身代わりの死を定められた、親友の姿だった。



―V・了―




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 鯨とカリャンの関係は最後までこんなんです。
 この章では魔女だけでなく鯨にもスポットを当てた風になってます。

 次はベルントとバルタザールです。


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