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「……良いんですか」


 静かに息子を見送るカリャンに声をかけたのは、意外にも有間だった。

 アルフレートにしっかりとしがみつきながら、血色の悪い顔でカリャンを見つめている。
 怖がらせない為だろう、カリャンは有間に視線を向けること無く、


「酷いことをした、のに……私を、気遣って、くれるのね」


 申し訳なさそうに返した。


「私は、良いの。……あの子が、利用されずに……自分の意志で……生きていてくれる、のなら」


 俯き、カリャンはぎぎぎと軋ませながら剣に触れる。何かを懐かしむように遠い目をした。

 沈黙したカリャンを見、アルフレートがティアナの方へと有間の背を押す。


「……ティアナ。アリマを頼む」

「ええ。……皆は外で待ってて」


 マティアスはカリャンに一礼し、足早に地下室を去る。アルフレートもクラウスも、カリャンに一礼して彼の後に従った。
 扉が重厚な音を立てて締められると、カリャンの仕業か燭台の火が勢いを増した。より明るく部屋が照らされ、至る所に染み込んだ血痕が鮮明に浮かび上がる。

 ティアナは有間の身体を支えながらカリャンの前に腰を下ろした。
 目に見えて有間が緊張しているのが分かる。さっきもこんな様子だったのだろう。カリャンに襲われた時、余程恐ろしかったのだろう。まだ有間はカリャンに警戒心を抱いていた。
 それは無理もないことだから、ティアナは咎めはしなかった。

 カリャンも、その点はちゃんと分かっている。本人だから、むしろ申し訳ないとすら感じている筈だ。あんなにも息子思いの人なのだから、本当はとても優しい人だと、ティアナは思う。狩間やマティアス達には甘いと言われてしまいそうだけれど。

 カリャンはもう有間には触れようとしなかった。唯一潤った目で有間を見つめ、


「……アリマ、と言う、のね」

「っ、ええ、まあ……」

「ごめんなさい……そう言ったって……許せるものでは、ないわね……私のこと、許さなくて良いわ。永遠に……」

「カリャンさん……」


 ティアナはカリャンが疲れ始めているように思えた。
 その身体で長く喋っている所為だろうか。元々死んだ身体に、何かしらの術を使って残留思念が留まっているから、苦しいのかも。
 カリャンを気遣わしげに見つめるティアナに、彼女は目を向けた。


「……あなた、は、とても優しいのね……。あなたの大事な人、を……殺そうとして、いたのに」

「え?」


 カリャンは手を伸ばしティアナに触れようとした。けれど上手く持ち上げられない。

 こちらからその手を握り締める。硬質で冷たい感触にぞっとしたし、胸も痛んだ。この人は……どれだけ苦しくて悲しくて寂しくて、辛い思いをしたんだろう。
 その中で、息子の無事と幸せも願っていたのだと思うと、目の前の、一人の母親の強さに頭が下がる。


「あなたは、純粋で、お人好し……正妃には、似つかわしくは……ない」

「……はい」

「けれど……あなたが、傍にいることで……変わると言うのなら」


 永遠にファザーンの大罪を――――魔女達への仕打ちを忘れないと言うのなら。
 彼女達も、いつかは呪いを解くのかもしれない。
 彼女達が解放されるのかもしれない。
 カリャンはまた遠い目をした。扉を見やって、ティアナに視線を戻す。


「あなた……名前は」

「あ、ティアナ、です」

「ティアナ……そう。ティアナと言うのね……よぅく、お聞き。あの男の、妃に、なるというの、なら……生半可な覚悟は、してはいけない……ファザーンの業は……何よりも、重く、黒い……その上で、あの男を……支えなさい」


 力が……声からどんどん消えていく。
 有間がひゅっと息を吸い、立ち上がった。目を丸くして、カリャンを見下ろす。


「あんた……まさかもう、」

「……」


 カリャンは僅かに首を縦に動かした。

 有間は弾かれたように身を翻した。
 しかし、それを有間の影から飛び出した蛇が足に巻き付いて引き留める。有間の口から一瞬だけ悲鳴が漏れるも、彼女はそれを振り解こうとはせずにカリャンを振り返った。


「良いの。……このまま、消えても、構わ、ないから」

「消える? 消えるって……」

「もう残留思念は力が弱まって亡骸に留まっていられなくなってるんだ」


 有間は眉間に皺を寄せてティアナの疑問に答える。


「……でも、あんた、最期がうちらとの会話って、」

「良いの。あの子にとって、私は、枷でしか、ない……あの子を苦しめるだけ、でしょうから。それよりも、アリマ……こちら、へ。喋れなく……なる前に」


 有間は承伏しかねるような顔して扉を見やった後、やおら頷いた。大股に歩いて戻り、ティアナの隣に片膝をつく。それでも、やはりカリャンのことは怖いらしい。


「私が、あなたに伝えたいのは……鯨を、お願い、したい。それだけ……」

「……お願いっつったって」

「お願い……あなたがいれば……きっとあの子は、もっと……幸せになれる、筈、だから……」


 お願い。
 カリャンは重ねて頼み込む。

 有間は渋面を作った。
 今、彼女と鯨は微妙な関係だ。有間は鯨が自分の父親でなく、実父の親友だったことに、両親のことに戸惑い続けて距離感が分からなくなってしまっているし、鯨も有間にはもう義父だとも、父親代わりだとも言わない。
 そんな状態で、お願いされても困ってしまうのが本音だろう。

 しかしカリャンに残された時間は無く。


 ……ぞわり。
 総身が粟立つ。


 それは一瞬のことだった。
 カリャンの座る椅子の下に出来た濃い影から、細長いモノが二本飛び出した。それは辛うじて五本指の手だと認識出来る。

 その奇怪な漆黒の手はカリャンの身体を掴むと、椅子ごと徐(おもむろ)に影の中に引きずり込もうとした。


「カリャンさん!?」


 ティアナが握り締めたカリャンの手を引こうとすると、黒い手に振り払われてしまう。
 体勢を崩したのに、拘束から解放された有間が駆け寄って身体を支えてくれた。


「あ、ありがとう、アリマ……でも、カリャンさんは、」

「……。時間切れっぽい、多分、だけど」


 有間はますます苦い顔をしてカリャンを見る。


「術の、反動ね……もう、魔に堕ちるみたい……鯨のことを、お願い、します……」


 カリャンは、慌てた様子も無く、また頼む。

 悩む時間など無かった。
 有間は一瞬だけ目を逸らして、


「善処します。ちょっと……時間かかると思いますけど」


 カリャンは小さく笑った。


「……ありがとう」


 有間はそこで気まずげに顔を逸らした。
 けれど――――。


「――――もう一つ、あんたに言っとく」


 瞬きのうちに瞳の色を変えて、カリャンに視線を戻した。


「ラウラは、元気でやってたぜ。弟子を取って、賑やかに、誰にも利用されず。悠々と暮らしてる――――鯨も、彼女のことは気にかけてやってる。だから安心して堕ちると良い」


 カリャンは何も言わなかった。
 いや、言えなかった。

 言おうと口を開けた直後には、手に頭を押さえつけられて影に呑み込まれたから。

 狩間は影を見、深々と拱手した。
 ティアナも、スカートを握り締めて深々と頭を下げた。



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