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16
鯨は母を前に固まっていた。
『……《お友達》の子供を……自分の子供として、大切に……守っていたのね。あの、鯨が』
嬉しそうに、和やかな声で言われた言葉に困惑を隠せない。
父の顔になったと彼女は言った。
有り得ない、そう、声も無く呟く。
邪眼と魔女の混血は知識欲ばかりが強く、人らしい感情を持ち合わせない。誰かを愛し、子を為すなど非常に稀なケースだ。
「……母上。ご冗談を」
冗談を言える状態でないと分かっていながら、鯨は冷たくあしらう。そうしなければ、ならないような気がしたのだ。認めてしまえば、自分自身が傷つくような、今までせき止めていたものが溢れ出してきそうな――――そんな危機感があった。
されど、カリャンは嬉しそうに笑声を漏らすのだ。
「良かっ、た……あなたが、こんなにも臆病な子になっていて……人と、同じ感情を持つことに……こんなにも怯えてる……」
「……」
「嗚呼……良か、った……良かった……」
大切なものが出来たのね。
私のもとを離れて、沢山のことを知ったのね。
良かった。
本当に良かった。
泣いているのだと、何とはなしに察せられた。涙は無いが、身体が震えている。
有間が気まずそうに、アルフレートの袖を引いて戻ろうとするのに、アルフレートは苦笑する。鯨とカリャンの様子を眺めて、そっと音も無く退がる。
鯨にしてみれば、お前以上に気まずいのはこちらだと言いたかった。けれどそれが何とも子供じみていて、そんなことを思う自分に嫌悪する。調子が乱れてばかりだ。
カリャンはそっと鯨から手を離した。ぎこちなく、骨を軋ませながらミイラ化した身体を背凭れに寄りかからせる。突き刺さったままの剣が擦れ不気味な音を立てた。
顔を上げ、ぎょろぎょろと視線をさまよわせる。
「……佐波、様……どうか、鯨をお守り下さい……末永く、末永、く、」
天に祈りたいのだろうが、上は黴びた天井のみ。空など遠い。
鯨の後ろで、衣擦れの音。
足音がこちらに近寄ってくる。
隣に並び、片膝をついたのはマテイアスだ。……バルタザールにそっくりの、現王。
されど、カリャンは彼に視線を落としても何も変化が無い。敵意も何も、感じられない。
母親の様子を注視しつつマティアスの動向を窺っていると、
「……我々ファザーンは、あなた方に死ぬより辛い苦役を強いた。あなた方の恨みは、俺達を殺しても晴らされないだろう。俺一人が深く謝ったとて、あなたの傷つき疲れ果てた心にも響くまい。だが、どうか言わせて欲しい。……本当に、すまなかった。ファザーンの王として、先代達の愚挙を心から謝罪申し上げる」
「愚挙……」カリャンは彼の言葉を反芻(はんすう)する。その声は酷く冷たい。敵意を向けていないだけで、彼女の憎悪は変わっていない。
「己の先祖の行い……あなたは……それを愚挙と、言うの?」
なんて都合の良い男だと彼女は侮蔑を込めて吐き捨てる。
されど、マティアスはその言葉を受け止める。王として当然だと、凛然として真っ向からカリャンと向かい合っていた。
「……魔女への仕打ちを思えば、その言葉では足りないかもしれない。俺は、あなた方のことを何も知らずに育った。こんなにも近い場所で、長年苦しませ続けていたというのに……あなた方の苦しみも、願いも、何一つとして」
勝手な物言いだとは、マティアス自身も分かっている。
どんなに謝罪を繰り返しても、どんなに償っても、彼女の――――いや、彼女らの憎しみは晴れない。それだけのことを、ファザーンはしたのだ。
関係ないなど、魔女達には通用しない。
魔女達にとってはマティアスだけでなくアルフレート達も、ファザーンの王族自体が仇なのだ。
「俺のことを、バルタザールと思って憎んでくれて良い。俺はそれを受け入れる。情けない話だが、何も知らずに育った俺には、そうすることでしかあなたの憎悪に報いることは出来ない」
「……顔を」
カリャンは短く言う。
マティアスは言われるがままに顔を上げた。
カリャンの顔が憎悪に歪む。けれどもじっと見据え、何かを探る。
やがて、
「……あなたは、バルタザール……じゃないわ」
そう、憎らしげに呟いた。
「どうして……気付かなかったの、かしら……あの男とは、似て、はいるけれど……違う。あなた……息子なの」
マティアスは首肯する。
「バルタザールは、死にました」
「死ん、だ……」
バルタザールが死んだ。
カリャンはつかの間沈黙し、小さく笑った。
「……何を、言っているの? ……あの、男は……まだ、生きているわ……ただ、姿が見えない、だけ……」
小馬鹿にするように、カリャンは告げる。
マティアスは目を丸くし、アルフレートを振り返った。
「それは、どういう……」
「あなたの……あの、言葉が本当だと……言うのなら……」
そこの机の、引き出しの中を覗いてみなさい。
カリャンは言い、言葉を続ける。
「そして……その子と私を、二人にして」
「え……」
その子、のところで彼女が目を向けたのは有間。
有間は口端をひきつらせてアルフレートにしがみついた。ティアナが気遣うように寄り添い、カリャンに申し出る。
「あの……私も一緒にいてはいけませんか? 身体が心配ですから……」
「……王族で、なければ」
カリャンが許可を出せば目に見えて有間は安堵した。ティアナとアルフレートに頭や背中を撫でられる。
マティアスはクラウスとアルフレートに目配せしてカリャンの言う机――――隅に置かれた、埃被った薬瓶が並べられた小さな机に歩み寄った。
机は、薬瓶とは違い妙に綺麗に拭き上げられた痕跡があった。
まるで、つい最近まで誰かが使用していたかのような……。
不審がりマティアスは思案した。かと思えば何かに思い至ったかのように目を剥き、乱暴に彼女の言う引き出しを一つずつ探る。
ふと、動きを止める。
一つだけ、鍵がかかっていたのだ。
マティアスは地下室の鍵を差し込み、形が合うと分かってゆっくりと回した。解錠の音に、咽を鳴らす。
引き出しを開け、彼は何かを見つけた。
「これは……本と、手紙か……?」
取り出したのは掌程度の大きさの小さな本と、封筒。
マティアスは真摯な表情で封筒を開けようとし――――。
「っ!?」
見えない力に弾かれた。
「無駄よ。……それは、どちらも……私が封じている、から」
「……どうすれば、開く?」
「鯨なら……解ける、でしょう……」
私にはもう無理だけれど。
カリャンは話は終わりだと言わんばかりに、扉を見やった。
鯨はカリャンを一瞥し、立ち上がった。母親に背を向ける。母親に見られたくはないと、苦々しい思いからだった。
そんな息子を許すように、カリャンは小さな笑声を漏らし、「さようなら」と。
マティアスが鯨の動向を窺うように強く見据えてくるのに拱手し、鯨は歩き出した。カリャンにはもう、声をかけることすら無かった。
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