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14
浮遊感に襲われたのは、突然であった。
ティアナは足から感覚が失せてその場に崩れ落ちるのを誰かに支えられた。
顔を上げれば黄色く透き通った双眸。
狩間である。
ティアナは礼を言おうと口を開くがすぐには咽から声は出なかった。
狩間は目を細めて側に片膝を付いたマティアスにティアナを寄りかからせた。
「大丈夫か、ティアナ」
「……う、うん」
ティアナは漫(そぞ)ろに頷き、己の耳を塞いだ。
声が、聞こえる。
五月蠅いくらいに、沢山の怨嗟(えんさ)の声が折り重なってティアナを責め立て、或いは助けを求めてくる。先程の衝撃よりも軽いけれど、ずっと聞いていられるものではなかった。
狩間はティアナを見下ろし、部屋の奥に力無く座る女を見据えた。
ティアナはあっと声を漏らす。……姿が、違う?
人形と見間違えたその姿。ドレスから覗いた四肢は茶色く干からびてしまっている。ドレスもまた、赤黒く変色してしまっていた。
どういうこと……?
首を傾けるティアナを見、狩間は両手をゆっくりと広げる。
「ティナ、声が聞こえるだろう。この部屋に染み着いた悲しくおぞましい複数の声が」
ティアナは部屋を見渡し、耳を澄ませた。
一つ一つ判別は出来ないけれど、悲しくも恐ろしくなる言葉が、ティアナに訴えかけてくる。
やおら頷いて肯定した。
「……聞こえるわ。さっき、心臓を刺されるみたいな感覚も、」
「ここに捕らえられていた魔女と、カリャンに同調しかけたんだ。鯨が術をかけなければ今度はティナに取り憑いていただろうな」
両手を下げて腰を上げ、大股に女へと歩み寄る。止めない代わりにアルフレートが側に寄り添った。
鯨は壁に寄って女を睨めつけている。その手は仄かに光を帯び、いつでも女に術を放てるように構えていた。
狩間は女の頭を鷲掴みにし、ぐいと持ち上げる。
露わになった顔は、すでにミイラ化が進んでおり元の顔は分からなかった。眼球の失せた眼窩は黒く、奥で何かが蠢いているような気がする。大きく開けた口も今まさに恨み言を吐きそうだ。
その胸には、深々と剣が突き刺さっている。椅子の背凭れをも貫通しているのか狩間に掴まれて僅かに揺れた身体を縫いつけてびくともしない。
「……よう、カリャン。お前だけは頑なにここから離れなかったんだな」
掴んだ頭はそのままに、剣の柄を握って引っ張る。
抜けなかった。アルフレートに目配せして引っ張らせても同じだった。
鯨を呼ぶが、彼はミイラ――――否、カリャンを見据えて沈黙しているのみだ。何か思案しているのか口が僅かに動く。
「イサ殿?」
「……」
マティアスが声をかけても、反応は無かった
ややあって、鯨は目を伏せた。躊躇うように一歩足を踏み出して固まり、舌打ちして大股にカリャンの前へと進む。
片膝を付き変わり果てた母の顔を見上げる。
「……母上。鯨です」
少しばかり、緊張した声であった。
狩間はアルフレートの腕を掴んでカリャンの頭から手を離す。
がくりと落ちる――――と思われたが。
カリャンの首は、逆に自力で持ち上がったのだ。
眼球の無い眼窩から白い虫が溢れ出す。その下から、眼球が現れた。濃紺の瞳だ。
ティアナは口を両手で押さえた。マティアスが警戒するようにティアナの身体を抱き締め、クラウスがその前に立つ。
狩間はアルフレートと共にクラウスの隣まで退がり、三人にジェスチャーで沈黙を指示した。
だが、カリャンはマティアス達の警戒を裏切って、敵意を微塵も見せなかった。憎悪も、悲しみも、今の彼女からは感じられない。
「……い、さ」
カリャンが、掠れた声を発す。
鯨が、後ろ姿からでも分かるくらいに身を堅くした。
‡‡‡
鯨。
久方振りに聞いたその声に、鯨は口内が異常に苦かった。
渋面を作り、一瞬だけ視線を逸らす。
「……母上」
「あ、ぁ……鯨……私の可愛い、鯨……っ」
ぎしぎしと音を立てて両手が持ち上がる。時間をかけて、鯨の頬を挟み込み堅く冷たくなった指で引っかいた。
胸に渦巻くこの重たい感情は何だろうか。心臓を突きながら全身に広がり、身動きが取れなくなりそおうになる。母親に抱いたことの無い感情だ。
俺は母親に情を持ったことが無い。いつもいつも無感情に、母親から受ける愛情を受け流していた。
それはきっと今も変わらない。
だのに――――どうしてか、胸が非常に苦しい。
「大きく……なりましたね……」
カリャンは声を絞り出しながら、嬉しそうに頬を引っかき続ける。撫でているつもりなのだろうが、ミイラ化によって硬化した指は曲がり、肌に爪を立ててしまう。
鯨はそれを握ろうと腕を上げ、躊躇って下ろした。
……そもそも、鯨には息子として母親とどのように接したら良いか知らなかった。知ろうともしなかった。
だから、事実だけを述べようと口を開く。
「俺は、自分の意志でここにいます」
「……自分の、意志……」
「友人の忘れ形見を、守る為に」
振り返った先には狩間。無表情に、カリャンの動向を見守っていた。
カリャンはそれを見、鯨を見下ろす。ミイラ化した肉体の中でぎょろぎょろと動く目玉は不気味だ。ティアナなどは視線を逸らしている。
「あの、子、私が……使おうと、した、」
カリャンは鯨の頬から手を離し、狩間へと手を伸ばす。
狩間は後頭部を掻いて唇を曲げた。目を伏せて暫し沈黙して瞼を開けた。
現れたのは紫の瞳だ。
よろめいたのをアルフレートが支えて顔を覗き込んだ。有間に代わったと知った彼は軽く驚いた。
有間は額に手を当てて視線をさまよわせた後、カリャンを見ゆっくりと近付いた。カリャンに操られてアルフレートを殺そうとしたことや、カリャンに殺されかけた記憶が尾を引いているのだろう、アルフレートの手をしっかりと握っていた。
鯨の隣に立ってアルフレートに寄りかかるように座り込むと、カリャンはゆっくりと手を伸ばした。が、剣の柄が引っかかって届かない。
アルフレートが有間の身体を押して顔を近付けさせた。「今の彼女からは、敵意は感じない」――――そう、彼女を諭して。
実際、カリャンからは殺意も憎悪も何も感じられなかった。鯨が目の前にいることで、正気を保っていられているからだろうか。
「あなたを、鯨が……鯨の、《友人》の、忘れ形見……」
「……そう、らしい……ですけど」
有間は身を引きたそうだ。警戒がありありと浮かんでいる。
鯨は母の腕を掴んで有間からそっと離してやった。
カリャンは有間を凝視する。何度も何度も、『鯨の《友人》の忘れ形見』を繰り返して。
やがて、
「あなたに……友人が、出来たの……。忘れ形見を守ってあげたいと、思うくらいに……?」
何にも興味を持たず、常に無感情だった、私の坊やが。
信じられない――――彼女はそう呟きを漏らす。
けれど嬉しそうで、ぎょろぎょろと眼球が鯨と有間を交互に捉えた。
「……嗚呼……鯨、顔をもっと……もっと、母に、よく見せて」
「……」
鯨は一瞬言葉に詰まって固まった。
けれどもアルフレートに促されてやおら身を乗り出す。
カリャンはその顔をじっと見つめ、「嗚呼……」驚嘆の声を漏らした。
「嗚呼……嗚呼……そうなのね。あの子が、こんなにも、人に……近付いて……」
そっくりだわ。
彼女は、声を震わせて言った。
何がそっくりなのか、鯨には分からない。カリャンを見つめ、怪訝に眉根を寄せた。
されど――――。
「そっくり、本当に、そっくり……あなたの顔、あなたを身篭もった私の、お腹を見つめていた……佐波様に、とっても、そっくり」
あなたも《お父さん》になったのね。
カリャンの言葉に、鯨は面食らって言葉を失った。
佐波、とは父の名前だ。母がそのように言っていたから、そう記憶している。
俺が、《父》になった?
カリャンの言葉の意味が分からず、鯨は母を呼ぶ。
「……《お友達》の子供を……自分の子供として、大切に……守っていたのね。あの、鯨が」
母は優しく、やはり嬉しそうに独白する。
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