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 手が、震える。
 ふらりとよろめいてアルフレートから離れた有間は、その場に座り込んだ。両手を見下ろし、目の端が裂けんばかりに目を剥く。


「うち、今……何、して、」

「……っ、アリマ」


 アルフレートが咳き込みながら上体を起こし、有間へと手を伸ばす。


――――憎い、と。


 自分ではない誰かが耳元で囁く。殺すように指示しているような憎らしげなそれに、有間の頭の中で警鐘が鳴り響いた。囁く誰かとは違う声が、この場を離れろと言う。
 このまま声を許していれば、真実目の前の男を殺してしまうぞと、諭すように逃げろと言ってくる。

 有間は立ち上がると、そのまま部屋を飛び出した。
 扉を抜けた瞬間、何故か身体がふっと軽くなったような気がした。
 その感覚に思わず足がふらついてしまったが、倒れることは無かった。

 何が起きているのか分からない。いつの間にこんな時刻になっているのか、どうして自分がアルフレートの首を絞めていたのか。
 自分の意思がやったのではない。だのに、どうして――――。


『……役に立たないわ、この娘』

「――――え?」


 不意に聞こえた、あの囁きと同じ声。だが、先程とは少し違っている。
 足を止めて振り返ると、そこには女官が一人。だらりと両腕を垂らし、俯き加減に佇んでいるだけ。明かりも何も持っていない姿が剰(あま)りに不気味で有間は気圧されたように後退した。

 何だ……この気配。
 異様だ。
 何かが、あの人の後ろにいるみたいで――――。


「あの子と同じだったから、きっと憎んでいると思ったのに……違うのね。使えない。これじゃあバルタザールを殺せない。殺せない、殺せない、殺せない、殺せない、殺せない、殺せない、殺せない、殺せ……殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ」


 それはさながら呪言だ。耳から脳へ、そして全身を蝕むように痺れに似た感覚が広がっていく。

 ゆっくりと、面を上げて女官は黒い双眸に憎悪を湛えて有間を睨めつけた。

 ぞわり。悪寒。
 有間はひくりと咽を震わせて駆け出した。
 逃げなければ。彼女は危ない!
 何が危ないのか、明確なところは分からない。けれども捕まってしまったら終わりだと本能が察して背中を押す。
 足の速さなら自分の方が上だ。距離を十分離せばきっと大丈夫。

 けれど――――角を曲がったところにあの女官が立っているではないか!


「な……っ」


 足を止めてまた逃げようとすると、足に何かが絡みつく。
 見下ろせば、それは蛇だ。有間自身の影から現れ、赤い舌をチラツかせながら恐ろしく冷たい身体で有間の足を拘束する。
 振り払おうと足をばたつかせようとしても、足はびくともしない。


「くそ……っ!」

「役に立たないのなら……殺してしまわなければ」


 譫言のように、甘ったるく言う女官に、有間は手袋の指先を軽く噛んだ。引き抜こうとしたのを後ろからの衝撃に阻まれ、前に倒れ込んでしまった。
 衝撃を受けた場所から、熱を帯びた激痛が広がっていく。異物感が後ろへ引き抜かれる感覚に鳥肌が立ち、刺されたのだと知る。傷は恐らくは深いだろう。

 どし、と丁度傷のある部分に体重がかかった。傷が圧迫され、激痛に喘げばうなじにつんとした痛み。


「私は、あの子を守らなければならない……私の大事な、大事な坊やを守らないと……裏切ったバルタザールを殺さなければ……あの子は自由にはならない……あの子をファザーンの道具にさせるものか……ファザーンなど……忌まわしいファザーンなど……滅んでしまえば良いのよ……!!」

「あぐっ!?」


 首かと思えば、右肩口。がつっという音は、多分肉を貫通した刃が床に当たったそれだ。となると、腹も貫通しているかもしれない。
 本気で殺されると、全身が冷え切ってひきつった悲鳴を上げた瞬間、同じ右肩口を突き刺される。憎悪をぶつけられているのだろう。逃げなければ、本当に死ぬ。

 手袋を口元に持って行こうとすると、すかさず蛇が腕を拘束する。


「……っち、くしょ、」


 痛い、なんてものじゃない。
 邪眼を殺した時に比べれば軽いものだけれども、これは激痛以上だ。
 バルタザールへのおぞましい恨み言を吐きながら女官はまたうなじに刃を当てた。ぐっと力を込める。


「止、めろ……っ!」

「あの子は……鯨は……私が守ってあげなくちゃいけないの……!!」

「え?」


 い、鯨?
 鯨って、鯨さん?


「どういう、」


 こと。
 最後まで言えなかった。
 問いかける言葉半ばで、ふっと身体が軽くなったのだ。
 直後に蛇も失せる。

 自由になっても痛みに身体は満足に動かず、やっとのこと左手だけで身を起こした有間は、次の瞬間には抱き起こされた。


「アリマ! しっかりするんだ!」

「……ぁ、」


 アルフレートだ。
 青ざめて有間の身体を抱き上げ身を翻す。

 慌ただしく廊下を走ってきた兵士達に女官を捕らえるように指示し、自身は私室に飛び込んだ。
 ソファに寝かせ、傷の様子を確かめる。

 止めてくれ、触るなと。
 そう言おうにも、口は満足に動かない。
 血を流しすぎたのだろう。思考も白濁と濁り、やがて中断せしめられた。

 事態が分からぬまま、眠るように、ゆっくりと目を伏せる。



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