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 いいや、無い無い無い。
 絶対無い。だってそんな感覚無いし。うち術士だし! そんなんまず有り得ないし!
 部屋の片隅で頭を抱え念仏のように暗唱しながら有間は否定を繰り返す。

 霊と接触した人間が痙攣した後昏倒し、その前後の記憶が欠落する。
 そう言った話を何度も聞いたことがあった。霊に取り憑かれたその人間は以降、ままに人が変わったように豹変し、問題行動を起こすことがあると言う。

 それが自分にも起こっていると知り、彼女はここまで狼狽しているのだった。
 ちょっと待てよおいぃ……っ!!
 もし、その霊に従って霊に取り憑かれたともなれば、術士としての矜持はズタボロだ。何の抵抗も出来ずにあっさり取り憑かれるなんて!
 それに……もしベッドで寝ていたのがその失われた記憶の中霊に不如意なことをされていたとしたら……嗚呼、死にたくなってきた。
 アルフレートに最後まで聞くべきだった。あのまま話を終わりにするべきではなかった。
 青ざめる有間に、部屋に入った女官は少しだけ不気味そうに、困惑した風情でテーブルの側で挙動不審になっていた。話しかけるべきかそっとしておくべきか決めかねていた。

 アルフレートは自室に戻っているのでこの部屋にはいない。
 風呂などの世話を言いつけられている女官は、時間を気にし出した。おろおろと左右に動き回った後に意を決して有間に歩み寄った。


「あの、アリマ様。お風呂へご案内致しますが、よろしいでしょうか?」

「はぇ!? ……、……あ、はい。すんません」


 ……人いたんだ。
 気配にすら気付いていなかった。
 そのことにも嘆息し暗鬱とした風情で立ち上がった彼女は、女官に深々と頭を下げた。


「……ホントすいませんでした」

「いえ……では、こちらです」


 洗練された恭しい一礼を返し、女官は身を翻す。
 彼女に従いながら部屋を出ると、女官は右へと曲がる。ハイドリッヒの館は、バルテルス家とはまた違った意匠を凝らした造りだ。バルテルス家に比べて控えめな印象を抱くが、それでも贅沢を尽くしているのは変わらない。どんな些細な場所にも繊細な細工を施したこの館は、栄華を誇っていると客人にやかましいくらいに誇示していた。
 正直、有間の肌には合わない。昨日闇二胡を弾いた簡素な中庭の方がずっと好ましい。

 ……なんて、文句は口にしない方が良いんだろうな。
 ちょっとでも文句や我が儘を言ったら迷惑になりそうだ。
 有間は口を真一文字に引き結び、長い廊下を歩く。
 暫くは一人で歩き回れないな……確実に迷ってしまう。

 ティアナのとこに遊びに行くのも、慣れないうちは難儀するか。
 女官に悟られないよう、細く吐息をこぼした。



‡‡‡




 豪勢な風呂はただただ恐れ多いばかりで全く堪能出来なかった。
 女官に髪を整えられ、服もマティアスと鯨が事前に手配した衣服を着せられた。勿論両手の手袋は絶対に外さなかったし、風呂の中には女官は入れなかった。そのように頼み込んだのだ。
 動きやすい衣服に安堵しながら女官に案内されてエントランスへと向かうと、すでにアルフレートが待っていた。

 有間が呼ぶと彼はこちらを向いて微笑んだ。

 彼に駆け寄るのと同時に女官がアルフレートに頭を下げ自分の持ち場に戻っていく。


「早かったな」

「まあ、化粧とかは基本しないし、服も適当に着れば良いって感覚だからね。ティアナ程支度に時間はかからないよ。ああでも女官さんに髪を整えてもらえたのは有り難かったけど」


 ただ、左の横髪を一房三つ編みにされたのにはちょっと思うところがある。
 三つ編みにされた房をいじりながら有間は苦笑いを浮かべる。


「ってか、ここ風呂立派過ぎじゃない? あれ一人で入るには広すぎるって」

「そうだろうな。萎縮するだろうとは思っていた」


 からかうような物言いに、有間は片目を眇めて拳を握って殴ろうと身構えるとアルフレートは大袈裟なくらいに距離を取った。


「いや、もうあんなモロには入らんだろ、アルフレート君」

「……邪眼一族の膂力(りょりょく)が分かった一瞬だったからな、あれは」


 苦笑混じりに腹を撫で、アルフレートは手を差し出した。


「除雪はしてあるが、地面が凍ってしまっている。念の為手を繋いでいてくれ」

「……へーい」


 雪山育ちに何を言ってるんだか。
 有間は片眉を上げ、しかし彼なりの気遣いを拒みはせずその手を握――――ろうとして止めた。

 寸前で思い浮かんだのは、間近に迫ったアルフレートの寝顔だった。
 忘れたかったことを思い出してしまい、有間は風呂で暖まった身体がまた温度を上昇させていくのに片手で額を押さえた。


「アリマ? どうし……」

「あー、ストップ。取り敢えず君は離れといて」


 手を前に突き出して顔を背ける。

 と、有間の顔の赤みにアルフレートも今朝のことを思い出したようだ。少しだけ恥ずかしそうに、ばつが悪そうに視線を逸らしながら手を引っ込めた。


「……取り敢えず、騎士の間へ行こう」

「…………へーい」


 ……昨夜一体何があったのか。
 聞きたかったけれど、もう聞きたくなくなった。



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