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遠い昔、最愛の息子を手放した。
憎い男の子供の手を借りなければならなかったけれど、それでも後悔は無かった。
あの子だけは、絶対に彼らの好きにはさせない。あの子だけは、あの子だけは、あの子だけは。
絶対にファザーンの駒になんてさせるものですか。
私達を守る為に命を擲(なげう)ったあの人の代わりに、私が絶対にあの子を守るの。
だから。
だから。
だから。
あの子を捕らえたバルタザールを、殺してやる。
『馬鹿な母親も、いたもんだねぇ』
『言っても聞かないとは思うが、あいつはそいつじゃないよ』
‡‡‡
人間、驚きすぎると存外何も出来ないものだ。
声も出なければ身体も動かない。後者は物理的にということもあるが、それ以前に緊張から身体が硬直して動かせないのである。
目の前には人間の顔。隻眼で、灰色の髪をしている。
……というか、よくよく見知った顔であった。
何で、こうなってんの。
背中に回った感触は間違いなく彼の腕だろう。
有間は彼に――――アルフレートに抱き締められる形で、何とも柔らかいベッドに寝転がっている。
が、食事の場を抜け出し昨夜中庭で闇二胡を弾いていた記憶しか無い。その時何かがあったような気もするけれど、思い出せない。
ぐるぐると思考が回り、混乱は強まっていく。
取り敢えず、抜け出したい。
身体に動けと命じつつ、逆らって微動だにしない身体に焦りを覚えた。
これでもしアルフレートが起きたらどうする。発狂どころじゃないぞ――――ってちょっと待てうちの身体無事!? 何もされてない?
全身が熱い。
早く抜け出さなければと思うのに、身体はやはり、動かない。
目の前ではアルフレートが心地良さそうに寝ているのが何とも恨めしかった。こちとら火の車だってのに……ああ、意味が違う。あれ、こういう状況どう言えば良いんだっけ。あああ言葉が浮かばん!
今はとにかく、とにかくここから逃げたい!!
短い時間も長く感じる。
鯨がこの場に現れてくれれば良いのにと、なんとも都合の良い願いを持つ。が、当然誰も来る筈もなく。
有間は呻きつつ、目を堅く瞑った。
‡‡‡
「朝から何しとんじゃワレェェェェッ!!」
野太い大音声が、ハイドリッヒ邸を揺るがせた。
バルテルス家から派遣された女官達は仕事の手を止めて何事かと廊下の奥を見やるが、すぐにしんと静まり返ったので特に問題視することも無く、忙しい仕事を早急に済ませてしまおうと手を動かした。
彼女らが見やった方向にある部屋――――その中に、有間は仁王立ちして口端をひきつらせて凄んでいた。
その前には腹を押さえてソファもたれ掛かるアルフレートの姿が。余程の一打をそこに食らったようで、身体を震わせながら有間に謝罪を繰り返す。
有間が解放されたのは、つい先程のことだった。
アルフレートが起きた瞬間に身体の硬直が嘘のように身体は動いた。怒号を上げながらアルフレートの水月を的確に殴り、彼の拘束から抜け出した。
アルフレートも何が悪かったのか自覚していた。だからこうして何度も謝ってくるのだった。
「で、何であないなことになってんか、話してもらおか」
「……分かっている」
アルフレートはよろりと立ち上がると、「油断していた」と恥じ入るように独白した。そりゃあ、起き抜けに間近から急所を正確に容赦なく殴りつけられれば、かなりのダメージだった筈だ。
やりすぎたかな、と思ったのも一瞬、有間はアルフレートを低く呼んで話を促した。
アルフレートは武人として有間に呆気なく急所を取られたことがショックなのか、少しばかり暗い表情でソファに座り、有間に隣に座るように言った。
それに従い距離を取って腰を下ろす。
アルフレートを見上げると、彼は真顔になってこちらを見下ろしてきた。目が合って、咄嗟に視線を逸らしてしまったのは仕方がない。距離を取っても二人きりだというこの状況は有間にとってもキツいものがあった。
「その前に……今、体調に問題は無いか?」
「体調? うちの?」
「ああ」
虚を突かれた有間は怪訝に眉根を寄せ、首を傾けた。
体調と言われても、別に悪くはない。さっきまでの苦労で疲れ切ってはいるが、それさえなければいつも通りだ。
意図が分からぬままこくりと頷くと、アルフレートは大仰に安堵した風情で吐息をこぼした。
「そうか……」
薄く微笑む彼。
有間はますます訳が分からなかった。何故こちらの体調を気にかける必要があるというのか、彼の意図を探ろうとアルフレートの顔を覗き込んだ。
すると、アルフレートはそれから逃げるように仰け反り、視線を逸らしてしまう。さっきまでの真顔は何処へやら。有間の顔を見ないようにしている風にも見えた。
「アルフレート」
「……ああ。お前が食事の場を後にしてからすぐにオレも追いかけたんだが、闇二胡……だったか。楽器を熱心に弾いていたから、視界には入らないよう近くの部屋の前で待っていたんだ」
その後のことは、有間は記憶していない。
アルフレートの言葉を待っていると、彼は遠い目をしながら眉間に皺を寄せた。
「音色が止んだのを見計らい中庭に向かうと、アリマが誰かと話しているのが見えた。オレには相手が見えなかったが……」
ということは、霊を見たのだろう。普段から無意識のうちに制御してはいるが、気になるものがあるとまた無意識に制御を解いて見てしまうから……それ程の存在だったのかも。
如何せん記憶が無いから自分だけが知っている筈の相手の顔が全く思い浮かばなかった。
思い出す為に、アルフレートに続きを促した。
「その後身体を反転させ――――すぐに振り返った。直後に身体が震えたかと思えば、お前は倒れ込んだんだ。……覚えているか?」
「……」
常人に見えない相手と会話をしていて、何かあって中断して……その直後不自然に振り返ってぶっ倒れた、と。
……。
……。
……。
何だろう。
物凄く嫌な予感がしてきた。
アルフレートに待ったをかけ、頭を押さえて口角をひきつらせた。
「まさか……」
「……アリマ?」
まさか……。
うち、その《話し相手》に取り憑かれてはないよね?
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