Epilogue
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16





 北からの咆哮が終わった直後。
 目の前で、妖が消滅した。
 有間は長巻の切っ先を下に向け、低く曲げた膝を伸ばした。周囲を見渡し、色違いの目を細める。

 どういうことか、それは有間には思案する必要も無かった。徒人よりも優れた感覚はその雄々しき咆哮に浄化の力を見出し、妖の消失の起因していると結論づけている。
 だが、それが何によるものなのかまでは、分からない。
 方角は北西。護村が在る。
 有間は舌打ちした。
 錫を呼び寄せ、空を仰ぐ。
 護村に戻って確かめなければならないか。
 いや、その前にヒノモト全土の様子を見て回るか?
 つかの間の思案の後、有間は身を翻し歩き出した。

 錫もそれに従い、足下をとてとてと歩く。

 近くの木に繋ぎ止めておいた闇馬を解放し乗馬する。


「ひとまず、元都まで行こう。そこまでの様子を観察して、また同じように村に戻る」


 錫に言い聞かせているよりは、変更した予定を覚える為に口にしたように、何処か遠い目をして呟く。
 闇馬の腹を蹴り、駆け出した。

 そこから元都の在った地方までは、闇馬ではおよそ一時間半程度で至る。
 緑の絨毯が広がる平原を駆け抜ければ、歪(いびつ)な線を描く防壁が地平線の上に乗っかっているのが見えてくる。
 大破して失われた大きな門を抜け、一旦馬を止める。

 やはり妖の気配は────無いか。
 あの咆哮は、ヒノモト全土に届いたのだろうか。
 だとすれば……全ての妖が滅された?

 ついと己の両手を見下ろす。
 黒を埋め尽くす様々な絵は健在だ。常に外に出ている錫は勿論、手袋の中に住まう妖達も、有間の式であるからか咆哮に消されはしなかった。


「護村に戻るか」


 独白し、再び闇馬を走らせる。


────が。


 眼前に延びる大通り、その果ての門に立つ人物を見つけ、有間は驚愕する共に反射的に鬣(たてがみ)を引いた。
 急停止を強いられ闇馬が抗議の声を上げる。
 謝罪しながら首を軽く撫で、門へと歩かせた。

 門の側に腕を組んで立っているのは金髪の青年だ。
 数年前と何ら変わらぬ姿で、何ら変わらぬ笑顔で、有間を見つめている。
 胸が震えた。
 鬣を握る手に力がこもって、また闇馬が抗議する。

 闇馬の反応を見て彼は────サチェグは苦笑を浮かべた。


「おいおい。驚くのは良いが闇馬のことをちゃんと考えろよ。痛そうに」

「……最初に会って言うのがそれかい」


 闇馬を止まらせ、下馬。
 大股に歩み寄って探るように見上げると、サチェグは肩をすくめ拳を突き出した。

 ややあって、有間はそれに己の拳も合わせた。


「ただいま。お疲れサンキューな、親友」


 屈託無く、彼は笑う。


「お帰り。そっちも、お疲れサンキューな、親友」


 ……温かい。
 確かに体温がある。
 生きている。

 サチェグは生きてここにいる。

 有間は拳を落とし、その場に力無く座り込んだ。サチェグも屈み込んで顔を覗き込んで来た。にやにやしながら。


「これで、お前の償いは終わりだ。後は、鬼神と暁達がどうにかしてくれるってよ」


 終わりを断じ、サチェグは有間の頭を撫でた。
 見た目だけなら、二人はさほど歳の差は無い。けれども途方も無い年齢差があることを、有間は知っている。
 安堵したのだろう。
 気が弛んでしまったのだろう。
 今更ながらおかしくて、小さく笑った。
 何だか全身が溶けていくような不可思議で心地良い感覚がした。自分の中の全てが解けていくようで、暫くは動けそうにない。


「暁達、まだ何かしてくれてる訳?」

「大地に溶け込んだんだ。だから、封印されていた鬼も簡単に神へ昇華出来た。ああ、申し訳無いとか思わなくて良いぜ。あいつがしたかったからしただけなんだしさ」

「あ、そう……」


 サチェグは有間を抱き上げ、闇馬に乗せた。自らも後ろに乗り、飛びついてきた錫の頭を撫でてやる。


「おーおー。お前は変わってねえなあ。他は皆変わっちまってたが、お前見るとちょっとは安心するわ」

「このまま闇紺山に戻るよ」

「護村だろ? 一応湖底から見てたから全然問題無い。ちなみにお前の将来についても心配してない」

「死ね」

「不老不死の身としてお前らの子孫見届けるつもりですー」


 懐かしい軽口だ。
 本当に、戻ってきたのだ。サチェグは。
 となればヘルタータも何処かにいる筈。
 妖狩りは、もう終わりだ。

 有間は我知らず口角を弛める。
 錫がそれに気付き、嬉しそうに尾を振り一声吠えた。



‡‡‡




 咆哮は国境近くでもはっきりと聞き取れた。
 建物から兵士達と飛び出したアルフレートは、そのまま数人の兵士を連れて国境へ急ぐ。
 奇異なることに、あの猛々しい咆哮には何の脅威も感じられなかった。ただ何かを告げているかのような────鐘のように思えたのだ。

 念の為付近の国境の様子を探るよう兵士に指示し、自らも歩き出すと、ふと背後に風を感じた。
 振り返って、愕然。


「お前は……!」

「お久し振りね。アルフレート殿下」


 漆黒の髪をした、艶めかしい肢体に異民族風の衣装をまとう女。
 ヘルタータ。またの名を桂月。
 彼女がこの場にいるという意味を、アルフレートは瞬時に察した。同時に彼女に詰め寄った。


「……終わったのか」

「ええ、終わったわよ。後は、新しいヒノモトの、最初の神に任せれば良いだけ」


 ヘルタータは艶然と微笑み、右足に重心を置いて腕を組んだ。


「あの人はもうアリマと合流している筈よ。あなたも、会いに行ったら?」

「ああ。今から急ぎオストヴァイス城に伝令を飛ばそう」

「……あのねえ」


 美しき微笑は呆れ顔に変わる。
 両手を腰に当て、右足に重心を置いたまま上体をやや前に倒して上目遣いにアルフレートを睨め上げた。


「真面目も大概にしないと婚期を逃すわよ。自分の年齢を考えたら?」


 長々と嘆息して見せ、ヘルタータは背筋を伸ばした。肩を怒らせアルフレートの脇を通過する。


「今のうちに手に入れちゃいなさい。律儀に待ってたあなたに、私達からのご褒美なのだから」


 ファザーン王は、数日遅れて護村に来るでしょう。
 ひらりと片手を振り、その手で指を鳴らす。
 すると一瞬にしてヘルタータの後ろ姿がアルフレートに変わったではないか。

 そのまま声を張り上げ兵士達を呼び寄せるヘルタータの意図を知り、アルフレートは唇を噛み締めた。深々と頭を下げ、国境を越えた。
 このまま走って護村に向かえばどのくらいの時間がかかるだろうか。
 そんなことを考えながら草を蹴り上げ疾駆しているアルフレートの前で不意に景色に亀裂が入る。そこから黒い男が現れた。

 鯨だ。相も変わらず闇に身を包んで、術を使いアルフレートの前に現れた。
 彼は深々とこうべを垂れ、片手を薙いだ。
 すると、亀裂から今度は馬が現れる。
 闇馬だ。
 鯨は頷き、アルフレートを促した。乗れ、ということなのだろう。


「良いのか。オレは邪眼一族ではない」

「これは聞き分けが良い。有間の為となれば、殿下にも従います。故に、」


 鯨は視線でアルフレートを急かしてくる。アルフレートが長く待っていたことを知っている為の、彼の心配りだった。

 アルフレートは鯨にも頭を下げ、闇馬に乗り上げた。
 久方振りの、並の馬よりも高い視界と鞍も何も無い背中の感触に自然と背筋が伸びる。

 闇馬の首を撫で、


「すまないが、護村までオレを乗せてくれ」


 直後。
 闇馬は高く嘶(いなな)き、アルフレートが腹を蹴ったのに応え地を蹴り上げた。

 目指すは護村。
 有間との約束を、果たす為に。

 昂揚していなければ緊張もしていない。
 ただただ、安堵し、穏やかに喜んでいた。

 これで、終わりなのだ。

 有間達が妖狩りから解放される。

 彼女と、鯨に、平穏な生活がもたらされる。

 その現実を、アルフレートは心から喜んだ。



 直向きな想いを向けて。
 彼は、護村へ真っ直ぐ進む。

 進んで行く────。



























 春を迎えたその場所は、青々とした木々が揺れ、木漏れ日が至るところで生き物の如く動いている。
 鮮やかに色付いた花々は花弁に虫を載せ、ゆらゆらと風と踊る。

 護村の奥、邪眼一族の墓の前。
 梢の擦れ合う合唱以外、音は無かった。

 有間は山茶花の墓の前に立って空を仰いでいた。

 サチェグはいない。ディルクの屋敷で、鬼神のことを説明している。

 ……終わった。
 ただ佇むのみの有間は、何も気力が湧かないでいた。
 何をしてこれから過ごそうか、抜け殻になったように何一つ思いつかない。

 錫が足下で丸くなり、すやすやと寝息を立てている。
 それを一瞥し、目を伏せる。


「山茶花。これから、何をしようか」


 ぽつりと、問いかける。無駄なことと分かっていながら口から漏れて出た。

 死人(さざんか)は答えを返さない。返す訳がない。

 されども────この時、まるで彼女が答えを示すかのように。
 背後で、枝を折るような音がした。
 振り返り、えっとなる。

 悠久の滝に延びる道を、こちらに向かって急ぐ男がいた。
 彼は有間を見、足を止める。ふ、と笑った。

 有間は男を凝視した。

 やがて、ゆっくりと。


 彼の方へ、歩き出す────……。



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