Epilogue
────

15





 鬼は目覚めた。
 それは正に青天の霹靂の異変であった。

 瞼を開けるというやや重たい感覚。
 意識が覚醒していく急浮上するような感覚。
 そんなもの、永く訪れなかった感覚だった。

 目覚めを鬼は許されなかった。
 鬼には永久なる眠りを義務づけられていた。報われぬ鬼を哀れんだ姫神の慈悲だった。
 鬼は姫神の提案を受諾した。愛した女を母のように慈しんだ姫神の優しさが、浸食され行く意識の片隅にでも、しっかりと刻み込まれていたからだ。
 一生────否、永遠に眠り続けよう。そうしなければならない。そうしなければ────自分は、自分ではなくなり、完全な鬼と成り下がろう。
 自分が心から愛した、雪の似合う異種族の娘に向けた、万年氷すら溶かしてしまえる燃え盛る想いまで。
 自分を女と結びつけてくれた、雪月花の少年達に、申し訳ないと胸を痛めるこの痛烈な思いまで。
 自分が自分である証拠が消えてしまうのは、嫌だった。

 だから、ずっと眠っていようと決めていたのに。

 だのに、姫神のもたらした眠りが唐突に覚めたのだ。
 一体誰が何の為に鬼を目覚めさせたのか。

 それは、すぐに分かった。


『もう起きて良いんだ、───』


 それは懐かしい声だった。もう二度と聞くことも無い、死人の声だった。
 鬼は目の前に陽炎の如(ごと)揺らめき現れた三つの影を見、目を細めた。胸を震わせずにはいられなかった。

 嗚呼、なんと懐かしい。
 どうしてここにいるのかと、彼は問いかけた。
 けれども先程の声以降、彼らは一言も発せずに、また揺らめいて消えた。

 代わりに、鬼の周囲に映像が広がるのだ。
 それは鬼が眠っている間に国に起こった出来事全て。走馬灯のように、急速に流れて行く。
 めまぐるしく駆け抜ける情報を、しかし鬼は全て拾った。

 そして、見つけた。


 異なる時代の、雪月花。
 最後に残った雪の現在。希望ある未来。


 己の知る雪とは違う未来を行く雪に、寄り添う影は幾つもあった。

 雪を真実愛し、待つことを選んだ双剣を振るう隻眼の男。
 雪を案じる、不可思議な笛を持つ純真な娘。
 娘を心から愛する金髪の賢王。
 雪に親しみを持って接する賢王の弟達。
 雪と娘の世話を焼く眼鏡の男。
 親友への償いの為に雪の父親として守ろうとする魔女との混血。
 雪と雪を取り巻くの人間達の為人柱となった純血の邪眼────他にも、数え切れない程に影は多い。

 あの無惨な末路を迎えた雪とは、まるで違う。

 全く違う喜ばしい未来を、この雪は、持っているのかと。

 自分が目覚めた理由は、これか。
 その雪は、この国が変わった証のように思えた。
 なぜなら、彼女はあの雪とは違い、沢山の《人間》達に寄り添われている。
 もう、邪眼と人間が殺し合っていた悲しい時代ではないのだ。

 だから、目覚めたのだ。《俺》は。
 この目覚めは自然の流れ。
 変わりゆくならば過去の遺産である鬼はこの湖の底に遺(のこ)っていてはならぬのだ。

 変化するなら、こちらも変化或いは消失を選択せねばならぬ。
 遅ればせながら、鬼にもその選択の時が訪れたのだった。

 ならば────鬼はつかの間思考する。
 答えはすぐに浮かび上がった。

 思考する前から、もう片方を選ぶつもりはなかった。
 ただ、本当にその選択で良いのか、改めて自身に問いかけただけである。
 だがそれも無駄なことだった。
 変わらない。どんなに考えても変わりっこない。

 それが、俺の《償い》だ。
 俺の為に無惨に散らされた嘗ての雪月花への、俺と愛し合ってくれた女への────。


 俺は、変わろう。


 産声を上げる国を守ろう。
 鬼は選択し────昇華する。

 変化を赦(ゆる)された鬼は、妖気を失い覚醒した力強い自我が聖なる気を放ち始める。

 人より堕ちた悪鬼から、鬼神へ。

 妖から神へと急速に変化していく。生まれ変わる。
 鬼はゆっくりと手を持ち上げた。
 そこで初めて気が付いた。

 嘗ては冷たき水であった湖底は、刺すような氷に変化していた。
 ばきばきと氷を掻き分けながら、鬼は手を伸ばし続ける。

 そして、掴むのは。

 異国の異形。
 触れた瞬間異形は鬼の内に吸収され、またそれもまた善と変えられる。
 変化は、国に溶け込み再生を助ける存在に支えられ、滞ることも無く急速に進んでいった。

 異国の異形と融合した鬼神はゆっくりと氷を砕き脆き封印を抜ける。
 強く吹き荒ぶ温かい風が鋼の肌を撫で、照りつける太陽が真っ赤な瞳に光を与える。
 まるで、鬼神に、産声を上げる力を与えるように。

 封印を出てすぐに鬼神は咆哮(ほうこう)する。
 彼の長き咆哮は生きとし生ける者達を奮い立たせた。威圧するでもなく恐怖を植え付けるでもなく、最後の変化を告げる、言葉無き歌のようであった。
 沈んでいた湖を囲う木々からは咆哮に応えるかの如く、鳥が、鹿が、狸が、狐が、狼が、兎が、声を張り上げる。

 その咆哮は国中に響いた。
 大地を鳴動させ、生き物に害為す者乃至(ないし)はその種子を余す所無く滅した。
 猛々しき浄化の声の届かぬ場所などありはしない。全ての生き物達の耳に届き、邪心持つ妖を容赦無く排除する。

 生き物達の中には、無論雪もいた。

 今を生きる雪に向けて、鬼神はもう一度咆哮した。

 この国には今、神がいない。
 ならば新たな神が人々の心より生まれるまで、俺がこの国を守ろう。


 それが、恩義ある友と、心から愛した女への償いだ。


 嗚呼、歌が聞こえる。


 泉に浮かぶ芙蓉の下に
 母の優しい笑みぞ在り

 泉に浮かぶ芙蓉の上に
 父の厳しき顰(しかみ)ぞ在り

 我ら 愛しき父母の
 尊き想いを 忘るるな

 我ら 愛しき父母を
 繋ぐ縄目と心得よ

 舞え 舞え 舞え
 母の愛を 父に届ける為

 歌え 歌え 歌え
 父の愛を 母に届ける為


 嗚呼、なんと懐かしい。
 いつもいつも雪月花が歌っていた一族に伝わる遊び歌だ。
 鬼神は再び巨躯を湖に沈めた。

 眠りに就くのではない。
 目覚めたまま、この湖底よりあまねく国を守るのだ。

 小さな雪の為に────。

 湖の側には金髪の青年と、黒髪の妙齢の女性の兄妹が立っていた。己と一緒に眠っていた者達だ。
 兄は不服そうな顔して鬼神を見送り、妹は欠伸をして身体の凝りを解そうと首を巡らせたり腕を回したりしていた。
 彼らの役目はこれで終わる。後の役目は、自分が担う。

 冷気は何故か心地よく、爽やかにも思えた。
 氷の寝床の中、鬼神はゆっくりと目を伏せた。
 意識だけははっきりと、動かぬ身体だけを休ませて。


 守護神は、国を隈無く見守り続ける。



.

- 130 -


[*前] | [次#]

ページ:130/134

しおり