Epilogue
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11
アルフレートと錫を残し、ディルクの家を出た有間は、その足で悠久の滝へ向かう。
万年氷と化した滝。その下に広がる凍り付いた湖の底を見れば、辛うじて人のような物体が二つ、透けて歪んで見える。サチェグとヘルタータだ。
未だ人柱として眠る異母兄妹。この二人の繋がりも、ヘルタータの今までの足跡についても不明のままだ。何も分からぬまま人柱としてしまった。
有間は畔から氷の上に降り、彼らの真上まで歩く。
片膝をついて氷面をを撫で目を伏せる。
こうしていると、二人の鼓動を感じると分かったのは、去年のことだ。
以降二人の生存を確かめるように、稀(まれ)に氷に触れる。そして、安堵する。
すぐに目を開けて陸へと戻る。
黒手袋を撫で口を開いた。
「水雲(もずく)、日車(ひぐるま)、辻風(つじかぜ)」
三つの名前を呼ぶ。
ややあって、三匹の異形が手袋から飛び出した。
それらは有間の前に並び、深々とこうべを垂れる。
一匹は有間よりも頭二つ分程背の高い全身毛むくじゃらの塊。頭部と思しき部分には丸い鼻と、手鞠程の二つの目がついている。可愛らしい外見のそれは、毛羽毛現(けうけげん)────彼に有間の付けた名が水雲。毛羽毛現は稀に家周辺のじめじめした場所に現れる妖であるり、一説には疫病神の一種とされる。
一匹は手足がそれぞれ一本の猿だ。背丈は有間の腰にも届かない。優れたバランス感覚でよろめくことも無く直立不動を維持するそれは魃(ひでりがみ)と言い、日車と名を与えられている。この魃はその名の通り旱魃(かんばつ)をもたらす妖である。
一匹は四つ足の、鹿のような角のある獣だ。じっくり見れば、馬、鹿、驢馬(ろば)、牛、四匹の動物に似ているようで、そのどれでもないと思えてしまう、奇妙な印象を与える獣。他の二匹とは違い、清廉な気を放っている。四不像(しふぞう)と呼ばれるその神獣は辻風。有間の闇馬代わりの足の役目を担う四不像は、戦闘にはあまり向かないが、足の速さだけは闇馬以上に抜群だ。故に急ぎの場合には闇馬を護村に残し四不像で移動することもある。
有間が「頼んだ」と短く言うと、一同不満そうな反応を示しつつ、渋々従い背を向けた。雪積もる森の中へ入り、姿が見えなくなる。
自分に従う式達を見送り、有間はまた手袋を撫でた。顔をしかめて騒がしく蠢く手袋の絵に言い訳をする。
「うちが動けない代わりに君達に動いてもらうんだろうが。こうすればうちは黙って休んでられる。ちゃんと言う通りにしてるだろ」
そのように言えば今度は妖狩りに触れること自体を禁じられてるではないかと猛抗議。ああ、五月蠅い。こいつら何でいっつも親みたいに小言ばかり言うかね。
有間は唇を曲げて手袋をばしっと叩いてやった。すると彼らはますますヒートアップする。
「あーもう五月蠅い五月蠅い。反論は受け付けへんで。最低限の譲歩はするけど、動かない範囲でやりたいことはさせてもらう」
耳を塞ぎたくなるが、直接精神に語りかけている為に無駄な行為だ。
話しかけられないよう手袋に封印されている時には眠らせることも出来るが、何だか生きている彼らを道具として見ているような気がして憚(はばか)られる。
しかし、こいつら五月蠅い。心配しているのは分かるが、何十匹もいる妖達が騒ぎ立てると非常にやかましいのだった。
「このまま騒ぐなら手袋置いて妖狩りに行ってやろうか」
本気を滲ませた脅しをかけるが、騒ぐのを止めたの半分だけ。気の強い、或いは世話好きな性分の彼らは一向に口を閉じない。
有間は大仰に嘆息して、その場に大の字に寝転がった。
空はもう濃紺に染まり淑やかに下弦の月が光を放つ。星々も、欠けた月を敬い控えめに光る。
そのまま無言でいると、手袋も次第に静まっていった。有間の思考が妖狩りから別のことに変わったと気付いたからだろう。
「……『お前に再会出来て本当に良かった』ねえ……」
ぽつり、呟く。
そう思っているのがアルフレートだけではないとは、有間だって分かる。ティアナもマティアスもエリクも……多分ルシアもそう思っているだろう。
だけれど、淡泊に聞き流してしまうのだった。
これから先も妖狩りは続ける。続けなければならない。
そのうち、完全に心が麻痺してしまったら、さすがにもう彼らは自分達と距離を置くだろうか。
今なら、それはさすがに避けた方が良いなと思える。そんな風にすら思えなくなるとしたら?
そうなったら……もう誰とも会わない方が良いんだろうな、うち。
左手を天へと伸ばし、そのまま降ろす。手の甲で額を押さえた。目を伏せ、意味も無く薄く口を開いては閉じるを繰り返す。
そんなことはないと、有り得ぬことを考えるなと、手袋から叱りつけるように諭してくる。
本当に彼らは親みたいにちくちく口を出すと、苦笑を漏らし、有間は左手を横に伸ばした。
それからずっと、何もせず仰臥(ぎょうが)したままでいた。
か弱い無数の光を隠しながら視界を横切る雲を目で追う。思えばこんな風に何もせずただ寝転がるだけというのも久し振りのように思えた。
カトライアにいた頃は、カトライアの外に出て、草の絨毯で一眠りしたりのんびりと過ごしていたものだ。今はそんな緩慢な一時に魅力を感じない。それよりも、早く本調子に戻って妖狩りに行きたいと逸(はや)ってしまう。
ティアナ達など、すでに思考の外だ。
多分彼らも感づいている筈だ。すでに軽蔑、しているかもしれない。
はは、と乾いた笑声を漏らせばまた手袋から否定の声。
「だから、五月蠅いってば」
嘆息する。
どっこいせ、と上体を起こし、有間は滝を見上げた。
滝の中にあった石像はすでに無い。いつだったか、旅から一旦護村に戻ってきた時すでに無くなっており、少しばかり驚いた覚えがある。
だが、神の消えたこのヒノモト、石像が消えるのも当然の流れだ。
暁が消え、恐らくは夕暮れも消えた今、もうヒノモトに神聖なる加護は無い。
護村の中で新しい信仰が起こり、そこから新たな神が生まれるのは、もっと先の未来だろう。もっとも、有間や鯨の没後も、人間達が生存出来る世界となっていればの話だが。
滝を、湖を見据え、少しだけ顎を引いた。左手に拳を握る。
立ち上がると、ほんの微かに錫の気配を感じた。未だ遠いが、こちらに向かっているようだ。あれからどれだけの時間が過ぎたのか分からないが、アルフレートとディルクの話はもう終わったらしい。
身体に付いた土埃や草を払い落とし、有間は気配のする方へ向き直った。
ややあって、錫を先頭にアルフレートが現れる。
アルフレートは滝を一瞥し、有間に視線を戻す。
「ここにいたのか」
「ああ。話は終わった?」
アルフレートは頷いた。
「アリマ、ありがとう。また一つ、すっきりした」
有間は彼の物言いに引っかかりを覚えつつ、肩をすくめて見せた。
アルフレートは有間の隣に立ち、湖を見渡した。
この下にはサチェグ達が眠っている。眠りながらヒノモトを調整している。
詳細はすでに彼にも話してあるし、ディルクの方からマティアス達にも伝わっているだろう。
「サチェグ達は、まだ……?」
「まだだ。まだ、妖が多い。今の状態ではサチェグ達は目覚められないよ」
だから自分は急がなくてはならない。
些末なことで留まってはいられないのだと、言外に告げる。
アルフレートは何かを言おうとして、止めた。有間を見下ろし、もう一度口を開く。
「……お前の始末は、お前の手で付けるつもりなんだな」
「その割に、父さんの手も借りている体たらくだけどね。実際死にかけたし」
だが、それでも立ち止まる訳にはいかない。
害を為す妖を全て消すまで。
太極変動の完成間近で一時停止状態だったヒノモトは、ヘルタータが根の国の入り口を全て完全封鎖したこと、サチェグが人柱となったおかげで何とか昔に近い状態にまで戻りつつある。妖の行動にも制限がつき、うんと殺しやすくなった。
サチェグが今ゆっくり外と調和させているから、安定し始めて全く別の様相に変化しつつある。徒人(ただびと)には分かるまいが、術に長けた人間なら、嘗(かつ)てのヒノモトの状態ではないと分かるくらいにまでなっている。
早く、自分の後始末の為に贄(にえ)となった彼らを役目から解放し、目覚めさせてやりたかった。
傷が治ればすぐにでも、出立しなければならない。
一人、そう決意を固めていると、アルフレートに呼ばれた。
「オレ達は、また待たされるのだろうな」
「待つ気があるんならね」
「ああ。待つ。オレも、ティアナも、マティアス達も」
お前やサチェグ達とまた笑える日を、待とう。
有間は軽く呆れて吐息を漏らした。
「父さんやサチェグはともかく、よく待てるね。こんなのを」
「アリマを愛しているからだ。オレとティアナ達とでは、意味が違ってしまうが」
「……ああ、そう」
こんな状態の自分に、よくもまあ、そんな風に言えるものだ。
ここでうちも好きだよなんて言ったって、信じられやしないだろう。
アルフレートに対して特別な感情があるのは分かっているし、否定しようも無い。
けれど今の自分は、あまりに冷淡だ。
錫を抱き上げると、アルフレートがその小さな頭を撫でる。微笑んで、言った。
「今のお前に言うのは苦しいことかもしれない。だが、今のうちに聞いてくれないか。帰る前に、お前に言っておきたいんだ」
オレは、死ぬまでアリマを愛し、待ち続ける。
アルフレートは一つ一つの単語に力を込めて言い放つ。
それは自身への決意表明でもあったのだろう。声音はゆっくりとしていた。
「もしお前の始末が終わった時、オレが生きていたなら……その時に、お前にもう一度愛していると、心から言おう。ずっと、国境の近くでお前達の無事を祈り、その日を待ち続ける。拳すら握れぬ程に老いてもだ」
「……」
有間はアルフレートを見上げ、吐息を漏らした。
背を向け、歩き出す。
アルフレートは有間の隣に並ぶ。
自宅への道を辿りながら、有間はずっと無言だった。
アルフレートも、本当に有間に聞いて欲しかっただけなのだろう。何も言わず、時折足下に気を配った。
けども────自宅が見えて、有間は足を止めるのだ。
「……アリマ?」
「もし……もし、うちが君のことが好きだとここで言ったとしても、今のうちじゃあ君は信じないだろうね」
先程思ったことを、口にする。
返答を待たずして歩き出す有間に────しかし、アルフレートは、
「信じるに決まっている。心から愛している女性の言葉なのだから」
やや上擦った声で、言うのだ。
有間はまた足を止め、沈黙する。
振り返りもせずに、口を開いた。
「『その時』にむっつりでも助平でもなくなっていたら、もう一度聞いてあげるよ」
毒を吐き、早足に家の中へ入った。
遅れて入ったアルフレートを出迎えた六花は、有間の様子に何かを察したようで、涙ぐんでいた。
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