Epilogue
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 しくじった。
 有間は垂れ下がった右腕を見下ろし、くっと呻いた。
 腱(けん)を完全に断たれたばかりか骨も粉砕されてしまっている。邪眼が無事だと分かるのは、神経がまだ辛うじて生きている証だ。
 邪眼が死んでいないなら、それで良いか。

 有間は立ち上がり、周囲を見渡した。
 異臭漂うその場には可視化した妖気が立ち込め、見た目からも長居が危険であることは明らか。
 早急に吹き溜まりを清めて、何処かで怪我を治療しないと……。
 歩き出そうとしてふらりとよろめく。

 また、その場に座り込んだ。
 片手で顔を覆い、長々と嘆息する。


「……妖気に当てられたか」


 長居しすぎた。
 有間は目を細め、もう一度立ち上がった。

 まだ身体は動く。動くうちに妖気の薄い所に移動しなければならない。だが、こんな状態では錫や闇馬が待つ場所にまでは至るまい。
 自覚すれば身体はどんどん重くなる。妖気に強められた大量の妖達とやり合ったのだ、相当の疲労が溜まっている筈。
 手袋の中にいる妖達すら理性が危ない状態だ。無闇に外には出せない。
 有間は身体を引きずりながら吹き溜まりから離れんとした。

 一歩一歩確実に進む。
 手袋の中から自分を出せと訴えかけてくる者がいる。まだ理性が無事な妖だ。闇馬が入れない場所での移動用に用いている者だが、妖力は非常に強い。濃厚な妖気の中でも、まだ自我を失わずにいられる。
 されど彼にとって苦しい状態であることには、変わりあるまい。

 有間はそれを黙殺し、自身の力に頼ってその場を離れた。

 安全だろうと思われる場所にまで至り、力尽きる。
 どしゃっと倒れ込み仰向けになる。
 妖気の影響をどれだけ受けたのか、身体は鉛のように重く、倒れた今では指一本動かせない。
 良く保ったものだと、自分の身体に感心した。

 深呼吸を繰り返す。段々と息がしづらくなってきた。
 心なし、感覚も鈍くなっているように思う。痛みがさっきよりも和らいでいる。
 さすがにヤバいだろうか、これは。
 ゆっくりと目を伏せた有間は、しかし抜けていく力を留めようとは思わなかった。そんな気力すら無いのだ。

 だろうか、ではない。
 真実ヤバい状態であった。

 薄れ行く意識を繋ぎ止めるのは手袋に封じられた妖達。主の意識を引き離すまいと騒がしい。
 彼らに声を返すことも無く、有間は最後に一つ深呼吸をする。

 眠るだけ。ほんの少しだけ眠るだけだ。
 少し休んだらまた移動して、手当てをしよう。
 そうして────別の場所の妖を退治しに行かなければ。
 まだ立ち止まれない。
 いや、立ち止まってはいけない。一生。

 サチェグ達が目覚める時を少しでも早めなければ。
 ほんの少しでも、たった一秒でも。

 自身に言い聞かせているうち、妖達の声すら遠退いてきた。

 妖達がより一層焦り始めたのが伝わる。だがどうしようも無い。
 少しくらい、休ませてよ……。
 心の中で、文句を言った。

 嗚呼、五月蠅い。
 有間有間有間と……そんなに呼ばなくたって聞こえてるっつうの。
 こっちは休みたいだけなんだ。休ませてくれたって良いだろうに。


「アリマ!! アリマ!!」


 ああもう、本当に五月蠅いな。



‡‡‡




 見慣れた天井は、しかし見る筈のないものだった。
 有間は目を開けるなり飛び起き右腕に走った激痛に身体を強ばらせる。


「いって……」


 そう言えば右腕はぼろぼろにされたんだっけか。
 見下ろせばそこは清潔な包帯が巻かれ、鼻を突く薬品の臭いが微かにする。
 それから自身がほぼ無意味自宅のベッドに寝ていることに気付いた。

 東の地から離れた護村の自宅に何故自分がいるのか。
 記憶を手繰れば、意識が閉ざされる直前誰かが自分の名前を呼んでいたような気がする。
 恐らくは鯨か鶯がタイミング良く現れたのだろう。運が良かったとしか言いようが無い。相当危険な状態だったのだと、今更ながら思う。
 真っ白な寝衣から着替えようとベッドを降りると、部屋の隅の専用の寝床から錫が転がり出た。大きな木材の中をくり抜いてうろにしたそれは、錫のお気に入りの場所だ。滅多に利用することは無いのだが。

 きゅうと鳴いて足に飛びついてくる錫に片膝をついて撫でてやる。ぱたぱたと触れる尻尾を見て、眉根を寄せた。彼の身体を確認するように撫でつけると、勘違いしてごろりとお腹を見せた。


「お前……いつの間にそんなに毛が伸びた?」


 帯電してしまうからと、東に至る前に毛をある程度剃った筈だ。
 だのに、全体的に一センチとまではいかないまでも、毛が伸びてしまっている。
 元々錫が毛の伸びる早さがとても遅かった。伸び具合からおよそ半年程度と推測出来るが……まさか、それだけの時間を眠っていたとは思えない。

 腕にはめられた黒の手袋からの声にはたと気付き、有間は一人、使用人としても役に立ってくれる雪女を呼びだした。
 常変わらぬ氷の美貌は優しく和らぎ、美しい微笑を浮かべて有間にこうべを垂れる。


「六花。どのくらい寝てた?」

「お察しの通り、およそ年の半分程。主の思うよりも、妖気の影響が強く作用し、五臓六腑に異常が生じておりました。鯨様の治療により、ほとんど妖気は抜けましたが、ご覧の通り腕のお怪我はようやっと自己治癒を開始したところ。どうか、まだご無理をなさらぬよう」

「……」


 有間は舌打ちした。
 完全に自分の油断だ。
 六花にも手袋の中の妖達にも謝罪し、有間は着替えようと手を伸ばす。

 するとすかさず六花が衣服を取り、当然のように着替えの手伝いを始めた。


「ありがとう」

「いいえ。あなた様は我らの主ですから。尽くすのは当然の義なれば。……ああ、そうです。鯨様はすでに三ヶ月前に東の地の浄化に向かわれております。すでに済まされておられましょう。その間のあるじの世話は、客(まろうど)が」

「……客?」


 有間は怪訝に眉根を寄せた。
 今まで一度たりともそんなもの、来たことが無い。いや、そもそも家を空けがちにしているからだけれど。
 足下で錫がさっきよりも激しく尾を振って鳴く。その様子を見るにまあ悪い方の者ではなさそうだ。
 六花は優雅な所作で扉に歩み寄るのを制し、自ら引き戸を引いた。


「あっ、アリマ!」

「……」


 スパン!!


『ちょっ、アリマ!?』

「六花今すぐ引き戸を凍らせていや凍らせろ今すぐ」

「畏(かしこ)まりました」

「────って言いつつ開けるなよっ!!」


 くすくすと楽しげに開いた引き戸から、居間の様子がよく見える。

 そこには明らかにヒノモト人ではない金髪の男女が三人、我が物顔で居座っていた。



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