Epilogue
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 物心付いた時から、杏奈は世界が大嫌いだった。
 良いことなんてまるで無かった。
 盗賊に犯されて母は望まぬ双子を産み、気を狂わせた。何度も何度も憎悪に身体を傷つけられた。言われなき罪を背負わされて、理不尽な苦痛を与えられて。
 それでも側に置いたのは何故だったのか────などと、知りたくもない。

 母は急に数を増やした妖に食われて死んだ。
 娘達を囮にしようとして、失敗した。逃げた先に巨大な蜥蜴の口があったのだ。呆気無く丸呑みにされた。

 ざまあみろと思った。
 母親に対して子が思うこととしては間違っているが、それ以前に杏奈達は彼女から親としての愛情を受けたことなど一度として無かった。
 杏奈は双子の妹蘭奈を連れて、妖を殺しながら逃げた。
 だけど追いつかれて腕を食われた。でも、それでも蘭奈だけは助けたかった。
 遮二無二抵抗して妹を守っていた杏奈。

 それを守ったのは、義足の鍛冶師だった。
 素手で杏奈を喰らわんとした妖の首を砕き、引き千切った。

 その鍛冶師は瀬戸村昌(むらまさ)と名乗った。
 杏奈の傷の手当てをしてくれたその鍛冶師は、そのまま自分を引き取ってくれた。『んじゃあ、俺の娘になるか、お前ら』なんて軽々しく言って、自分の食料を二人に全て与えてくれた。
 変な男だった。
 あっけらかんとして、平然と自分達を娘にした男が理解出来なかった。

 でも、人見知りの激しい蘭奈がすぐに懐いたこともあり、杏奈も比較的すぐに心を許した。
 母と違い、村昌は自分達を決して見捨てない。それどころか命を張って守ってくれるし、自分のことよりも杏奈達を優先してくれる。
 怒られることもあったけど、それは本当に自分が悪い時だ、どうして悪いのか、厳しくしっかりと教えてくれた。
 これが、本当の父親なのだろうと、村昌が本当の父親だったならどんなにか良かっただろうと思う。

 世界は大嫌いだ。良いことなんてちっとも無い。
 でも、村昌のことは大好きになった。

 だから────二人は血塗れの村昌が膝をついて逃げろと怒鳴っても、決して逃げず、むしろその身を盾にした。


「馬鹿!! 俺は良いから逃げろ!!」

「やだ!!」


 目の前には、頭頂から際限無く噴き出す泥が身体を覆う臭い人型の妖がいる。村昌が言うには元々は人間だったのが妖になったのだろうとのことだ。
 村昌は杏奈を庇い、泥を被った。
 泥れには毒が含まれていた。
 皮膚からも浸透する即効性の毒は村昌を冒し、身体の自由を奪う。

 それでも気丈に自ら生涯最高傑作と評す刀を握って娘達の命を優先した。

 けども逃げて欲しかった杏奈達は逃げないと決意を固めてしまった。

 母親が死んだ時はざまあみろと嘲った。
 村昌を失うのは、恐ろしい。寂しい。苦しい。
 村昌と離れるなんて嫌だった。

 やっと、生まれて初めて手に入れた父親を、失いたくなかった。
 大嫌いな世界で……唯一の、心安らぐ場所だから。

 消えちゃ嫌だ!!
 それは蘭奈も同じだ。
 だから、何も言わずとも杏奈と同じことをしたのだ。

 泥の毒で草を腐らせ、妖は二人に近付いてくる。
 負けるものかと、子犬のように必死に妖を威嚇する。

 後ろでは、もう声も満足に出せなくなった村昌が、それでも二人を退がらせようとする。

 でも、絶対に逃げるものか。

 杏奈は、震える身体を抑え込んで、きっと睨めつけた。


 その時だ。


「六花」


 間近で、声。



 瞬間冷たい風が吹き荒ぶ────。



‡‡‡




 現れたのは、青ざめた長髪の、白地に真っ青なボタンの咲いた着物を着た女だ。
 その身に凍り付くような冷気を纏い────ほんの一瞬で妖を凍らせてしまった。
 振り返った途端にそれは何の衝撃も受けていないのに砕かれ、きらきらと日の光を反射しながら舞い落ちる。

 青白い女は、紫色の唇をにいっと歪めた。真っ青な目も弧を描いて細まる。


────雪女。


 幾つものお伽噺い登場する、有名な妖だ。
 だが実際にその姿を見るのはこれが初めて。
 杏奈はぞっとした。
 人間の領域に無い美しさには、氷のような冷たさがある。同時に、儚さもあった。

 どうして、妖が……?
 息を呑んで凝視していると、雪女は笑みを和らげて恭しく頭を下げた。

 自分達……ではない。
 今、自分の脇を通過した若い女に、だ。

 長い白銀の髪を後頭部の高い位置で結って馬の尾のように垂らした旅装束の女。腰には小型の銃がホルスターに収めてある。黒地に様々な奇怪な生き物の動物が所狭しと描かれた手には、長巻が握られている。
 女は雪女に気安く片手を振った。


「お疲れ。ありがとう」

「勿体なきお言葉ですわ。我が主」


 雪女はほんのりと頬を赤らめてはにかむと、目を伏せた。

 女が、長巻を持っていない方の手を雪女に向けると、彼女の身体はぱっと雪となって広がった。
 更に黒い指が音を鳴らす。
 途端に雪はその手首に一斉に群がるではないか。
 まるで一点に呑み込まれているかのような、急激な動きはすぐに止まった。

 女は手首を撫でると、杏奈と蘭奈を振り返った。


「良かったね。うちが通りかかって」


 その人も、助けられるだろ。
 金色の左目と紫色の右目を持つその白髪の女は、気を失っている村昌を見て目を細めた。



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