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『アリマ。俺も暁の忠告を無視して介入した罪がある。殿下やティアナちゃんがいないうちは、お前の分も一緒に背負ってやるよ』


 サチェグはそう言って、笑顔のまま湖に自ら沈んでいった。
 それを静かに見送った有間の黒い両手は、強く拳を握り締める。
 錫が小さく鳴くと、途端に力が抜けて長々と吐息が漏れる。その場に座り込んだ。

 膝に前足を置いて鼻先を顔に近付けてくる錫を抱き上げ、背中を撫でてやる。

 今になって、胸が痛い。
 でも不思議と涙は出てこなかった。ただ胸が痛いだけで、心は至極穏やかなものだ。

 ……それもそうか。
 自分に泣く資格は無いのだ。
 最後の引くべき引き金を違えたのは自分。
 それでいながら、自分には満足に償える力も無い。
 力が無い故にサチェグのような強い邪眼一族を犠牲にして尻拭いをさせてしまった。

 近くに横たえられた山茶花の遺体を振り返り、錫を降ろす。立ち上がった。湖の縁に近付くヘルタータとは逆に湖から離れた。


「あら、もう行くの?」

「……山茶花を弔ったらね。いつまで邪眼の力が残ってるか分からないし」

「ああ、安心して。邪眼一族の力は命と連結しているから消えることは無いわ。でなければ暁もお兄様も、ちゃんと対処してから人柱になっていたわよ。だから、そう急くことは無いの。一日くらいは、頭の整理をなさい。山茶花の弔いをしながらね」


 有間は小さく頷いた。
 ヘルタータは微笑んで、湖面を見下ろす。


「闇眼教の本拠があった場所なら、墓の場所には最適でしょうね。じきにお兄様が聖域に戻すでしょうから」

「分かった。そうするよ。……何か、あんたにも面倒をかけちゃって、ごめん」


 ヘルタータは肩をすくめておどけた。


「良いわよ。私は私の目的の為に動いただけだもの。さあ、ここは私に任せて、彼女の墓を作ってあげなさい。その間に鯨達もあなたに合流するでしょう」


 有間は小さく謝辞をかけて、背を向けた。


 その時だ。


「それじゃあさようなら。頑張ってね」

「え?」


────ザブン。

 背を向けた瞬間にかけられた別れの言葉。
 振り返った時には視界には水飛沫しか無かった。

 有間は目を剥いた。

 飛び散る飛沫が地面に、湖面に吸収されると、そこからビキビキと凍り付いていく。
 有間よりも早く縁に駆け寄ったのは錫だ。五月蠅く吠えて、湖面が全て凍ると尻尾を足の間に入れてその場に伏せをする。

 縋るような悲しげな雷獣の様に、有間はそうか、と声も鳴く呟いた。

 彼女の言葉に反応して、きゅうと力無く鳴いて有間を振り返る。
 歩み寄って抱き上げると胸に顔を擦り付けて甘えた。


「どっかで元の主人に甘えられなかったのか。お前。そんなタイミングは、一杯あったろうに」


 今までそんな素振りを見せなかったのは、新しい主人に遠慮してか────いや、単純にこっちが錫の微妙な変化に気付いていなかっただけか。
 腕の中の雷獣は物言わぬ。ただただ頭を擦り付けるだけだ。
 有間は頭を撫で、凍り付いた湖面を見やった。

 悠久の滝は、この雪山の中に在っても決して凍らない。
 それが頂上まで凍結してしまった。
 ヘルタータが、身投げする際にでも術で凍らせたのだ。
 サチェグと同様に人柱になるつもりだったのか、あいつ……。


「これでまた一人、荷が増えてしまったじゃないか」


 さすがに、重い。
 小さく呟いた。
 吐息を漏らし有間は今度こそ山茶花に歩み寄った。
 自分と同じ体格の遺体を肩に担ぎ上げよろめきながら歩き出す。

 さて……闇眼教の本拠は何処だったか────。


「────おい」


 ディルクである。
 右目の札は剥がされ、アクセサリーで隠されている。

 竜がいないので、さほど脅威は感じなかった。


「ん……?」

「さすがに無理があるだろう」

「そう?」

「イサとか言う男を待った方が良いんじゃないのか」

「いや、いつ戻ってくるか分からないし────」

「山茶花の身体が傷つく。止めておけ」


 ……また唐突なことだ。
 驚くよりも早く、山茶花の遺体を奪われる。

 顔を上げると、噂をすれば影。鯨が呆れた顔で山茶花を抱え上げていた。


「ああ……戻ったの」

「……あれはもう湖底か」

「うん。闇眼教の本拠だった場所に山茶花を埋めて……翌朝すぐに旅に出るよ」

「俺も行こう」


 当然のように鯨は言った。

 有間はその言葉に、ほっと安堵する。
 そして、ちょっとだけ苦々しく思った。
 いつの間にか鯨に対する気まずさは失せている。いつそうなったのか、自分でも分からなかった。ヒノモトに入ってからずっとそれどころでもなかったのだけれど。

 歩き出す鯨に渋面を向けて、有間も彼に続いた。
 ディルクも、鯨に促されてついてきた。


「……有間。闇眼教の本拠に村を築かせても構わないか」

「え、何で?」

「山の麓で難民を見つけた。朱鷺が連れてくる。ディルク殿下も共にそこで生活していただく方が安全だろう。朱鷺……いや、鶯を残せば軋轢(あつれき)も少ない。あれの家も朱鷺の功績で高名だ。少しは信頼も得られよう」

「山茶花の墓が荒らされないなら、うちは構わないけど……そうなると、今後うちらが寄りづらくならない?」

「その点も、問題は無かろう。東雲家は邪眼に好意的だ。悪いようにはしない」


 鯨は歩きながら、言う。
 有間は目を細め「ああ、そう」と淡泊に返した。

 東雲鶯がどうしていたって、きっと変わりもしないだろうと、思っていた。

 邪眼が人間に忌み嫌われるのは、未来永劫、変わらない。
 だったら、本当に心を許した相手だけがいれば、それで良いじゃないか。
 ヒノモトに在りて、そう思う。

 自分のすべきこと以外何も考えなくて良い。
 有間は長巻を握り直し、深呼吸をした。



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