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一旦は落ち着いた。
緑色の血液を振り払い、有間は馬上筒を指に引っかけて一回転させた。
辺り一帯に酷い臭気が充満し、胃の腑がムカムカと不快だった。このままここにいれば吐瀉(としゃ)してしまいそうだ。
有間は顔をしかめ、鼻と口を手で覆った。
サチェグが気を利かせて術で風を吹かせてはくれたものの、すぐにまた臭いが満ちてしまう。
「すっごい臭い……」
「しょうがねえ。こんだけ死屍累々としてりゃあな。風で振り払ってもあんまり意味は無い」
隣に並んだサチェグが、長巻を返す。
馬上筒を懐に戻して受け取るとそれは喧(やかま)しく文句を言ってきた。この程度の変化で暴走するとアルフレートに思われたことが余程腹立たしかったらしい。
有間にだけ聞こえる声で抗議する長巻の刃を撫でて宥め、有間は近くの岩に腰掛けた。当然のように錫が膝に飛び乗ってくる。
鯨と朱鷺は辺りの見回りに。ヘルタータは近くで鬼の封印に付け焼き刃の結界術を施していた。ほんの少しだけの、時間稼ぎだ。
ディルクは少し離れた場所で妖の屍に顔をしかめて、袖で鼻と口を塞いでいた。
夕暮れは、やはり放心状態だ。もう心が壊れてしまったのかもしれない。サチェグ達も彼女に構うこともしなかった。
サチェグは滝の真ん中に突き出た物言わぬ姫神の石像を仰ぎ、有間に視線を戻した。
「で、心を決めてくれたか?」
「……」
有間はサチェグを見上げ、片目を眇めた。
サチェグは肩をすくめ、いつもの笑みを浮かべて見せた。
言外に大丈夫だと言われたような気がした。
……いや、実際大丈夫なんだろう。
サチェグの力量は、有間の見てきたものが全てではないと、ヘルタータの口振りからも分かる。
だからこそ、こんな風に有間を気遣って、笑顔でいられるんだろう。
その実力と、実力に裏付けされた余裕が羨ましい。
サチェグ程の力があれば、彼に頼ることも無かった。
有間は目を伏せ、暫し沈黙した。
サチェグは、有間が目を開けるまで待ってくれた。
時間が無いと分かっているのに、有間の中で整理が出来たるのを、もう少しだけ待ってくれるのだ。
有間は瞼を押し上げ、口を開いた。
「……うちら次第で、本当に、短縮が出来るんだね?」
「ああ。早ければ早い程良い。遅める必要も無く調整が終わる前に害ある妖が消えてくれれば、その分早めることも出来る。ついでに言えば生きているうちにティアナちゃん達に会えるかどうかもお前らの頑張り次第。……眠れる森のハイスペックを目覚めさせてくれるかい?」
「人柱になるってのに、どうしてそんなにおちゃらけていられるんだか……、っ!」
溜息を付こうとしたのを遮ったのは、サチェグからの軽い一発だ。
衝撃に肩を僅かに跳ねさせて有間はサチェグを睨め上げる。
それに、サチェグは笑顔のまま言うのだ。
「ただ親友と弟子を信用しているだけだよ。俺は」
はっきりと。
堂々と。
有間は今度こそ溜息をついた。
「……分かった。ごめん。任せるよ」
「了解」
サチェグは大きく頷いて、有間に拳を向けた。
それに、有間も拳を当てて応える。
「頼むぜ親友」
「……当たり前」
有間は小さく言葉を返し、もう一度サチェグと拳をぶつけ合った。
彼女の視線が錫に落ちると、サチェグは安堵したように表情を崩した。
顔を上げた直後にはすでに表情を引き締め、ヘルタータを呼んだ。
「桂月。どうだ」
「鬼はまだおねんね中ね。今のうちに竜を取り込んでさっさと終わらせた方が良さそう」
ヘルタータは言い、夕暮れに視線をやった。
サチェグが眉間に皺を寄せた。
「ところで、その子はどうするの?」
「逆に訊くが、夕暮れちゃんをどうするつもりだよ、お前」
「消滅する前に人柱の防壁になってもらおうかと。神を分解して構築し直せば絶対的な防御が叶うわ。私の理論でもお兄様の理論でも、神という不確定な存在の分解、再構築は可能な筈よ。だから龍神を取り込んで不老不死を完成させられたのでしょう」
ヘルタータは悪びれも無い。むしろこの場での最前の方法を示したのにサチェグが不満を滲ませているのが気に食わない様子であった。
「あの子、闇の女神の消失が影響して自我が崩壊しかけているじゃない。元々女神の一部から生まれたのだから、数分後には消失してしまうわ。あの二柱の一部から生まれた神は、この消失の影響を最も受けるでしょうから」
「だからって……そんなん出来るか」
「あら。そうでもしないと最悪の事態を確実に回避することなんて出来ないわ」
「俺がいるんだから十分だろうが」
「もし外部の敵に人柱の封印が攻撃されたらどうするの。そうなった時多少の揺らぎで封印に綻びが出来るかも分からないじゃない。外国じゃ何を作るにもいつか事故が起こることを想定するけれど、生憎とヒノモト寄りの私は絶対に起こらない性能を求めているの」
「それなら別の方法を考えれば良いだけだろう」
「それ以外の方法なんて無いわ。それはお兄様が一番よく分かってる筈でしょう? 今更消え行く用無しの神に情けをかけるなんてナンセンスだわ」
「ナンセンスって……全く意味が無い訳じゃないだろ」
「少しも無いわ」
……側で見ていて、サチェグが段々と苛立っているのが分かった。
後頭部を掻くにも、心配になるくらいにがりがりという音が大きい。
否定をしてないから、夕暮れをそのまま放置しているのは本当にサチェグの情けなのだろう。
どうも、夕暮れの君は闇の女神の消失による余波でも、精神的なダメージを受けていたらしい。元々女神の一部であるが故のことのようだが、有間にはそれ以上に今までの苦労が水泡に帰したことの方が余程大きかったように思えた。
そのまま一人で消失するのも、哀れな話だ。
有間は錫を抱えサチェグの目を盗んで夕暮れに歩み寄った。前に回り込んで顔を覗き込むと、柘榴石の如(ごと)艶めかしく煌めいていた双眼は澱み、光も感情も宿していない。物言わぬ人形のように、力無くうなだれている。
先程まで必死になっていた姿を見ている為に、一転して無機質となった様相にぞっとした。
だが、自分は後悔してはいけない。
有間はゆっくりと立ち上がり、ふと身体を反転させた。
そこには、今までいなかった、黄色い目をした蛇身の竜が浮遊している。
「暁」
有間が呼べば、彼は目を細めた。
力無く有間の前に着陸し、小さな子供の姿を取った。
白銀の髪は長く、黄色の目はくりくりとまるで魚のそれだ。
「すまないね。少し姿を借りるわ」
夕暮れを、迎えに来ちゃった。
暁は、一定しない口調でそう言った。
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