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 死者であればどれだけ良かったか。
 サチェグは青ざめ身体を震わせた。
 恐怖ではない。恐怖ではないが、恐怖によく似た衝動がそうさせるのだ。
 危機感とも呼べる、不安とも呼べる────打って変わって安堵とも歓喜とも呼べる、形容不可能な激しい衝動だった。

 そんな複雑な衝動に身体を支配されたサチェグが抱いたのは、至極単純な疑問である。
 何故、あいつがここにいる?

 桂月。
 嘗てサチェグ────砂月が殺めた筈の、魔女と邪眼の混血娘。
 彼の、異母妹。
 性格に大きな欠陥を持っていた彼女は、確かにこの手で殺した筈だった。何度も何度も、力の暴発により穿たれたクレーターの細部まで確認した。

 確かに、彼女は滅したと思っていたのに。


 狂気の化け物が、そこに立っている。


 ヘルタータとは、彼女のもう一つの名前だった。
 サチェグと違い魔女との間に生まれた彼女には、名前が二つある。それはこれからの将来、重要な選択肢である父母どちらの血も選べるようにとの、父なりの気遣いだった。
 異民族風の出で立ちも、国からの執念深い触手から逃れる為の母親の変装を倣(なら)ってのもの。

 だが、桂月は実際にはどちらも使用していた。家族の中では一応は桂月で通していたが、ヒノモトではその変装を解いて桂月と名乗り、ヒノモト以外の国では変装してヘルタータと名乗り────それ以外に偽名を使うことはただの一度とて無かった。

 桂月は、自分を凝視する異母兄を見て、ふふんとしたり顔で笑い飛ばした。


「カトライアにいたって聞いてからずっと分かりやすく教えてあげていたのに、お兄様ってば全然気付かないんだもの。酷いわ」

「……まさか、闘技場の」


 桂月は肩をすくめた。


「同名の別人だとでも思った? まあ、お母様が変装していた部族の女に多い名前ではあったけれど。一度でも見に来ていれば、私だって分かったでしょうに」


 サチェグは舌を打った。
 厄介なことになった。
 桂月がここで何をするのか、思いつく可能性が多すぎて対処しきれない。
 ただでさえ闇と光の二柱のみならず夕暮れを司る神がいるってのに────彼女まで参入したとなれば事態は更に混沌を極める。

 アルフレート達を無事に返す、それだけは一貫して変更は無いが────。


「安心してちょうだい。今の私に、知識欲は無いわ。お兄様が殺してしまったんだもの」

「……んだと?」

「今は悠長に話していられる状態ではないでしょう? 私が今無理矢理男神と女神の口を閉じさせているけれど、すぐに解かれるわ」


 桂月は朱鷺に目配せする。

 朱鷺はそれを受けてアルフレートを呼び、刀を構えた。
 何事かを囁かれたアルフレートもそれに倣う。


「……何をするつもりだ」

「……別に? 私はただ、私の宝物を我が儘で勝手に消されたくないだけ」


 サチェグは衝撃を受けた。
 『宝物を勝手に消されたくないだけ』────そう言いながら、彼女は朱鷺を見た。
 その短い間に瞳に浮かんだ情は、サチェグの知る桂月には存在していなかったものだ。
 柔らかなそれを向けられた朱鷺もまた、穏やかな微笑みを返す。

 桂月はうっすらと頬を染めた。

 ……誰なんだ、こいつは。

 違う。
 俺の知っている桂月ではない。
 誰かを愛することなど、出来なかった筈だ。

 だのに────。


「砂月さん!!」


 半ば放心状態だったサチェグを、誰かが懐かしい名前で呼んだ。
 我に返ってその場から飛び退くと、夕暮れの腕が雪を抉る。

 情けなくも、受け身が取れずに尻餅をついてしまった。我ながら恥ずかしい失態である。

 そんなサチェグ庇うように黒い影が前に降り立つ。
 肩に烏を乗せたその黒ずくめの男は。


「……イサ?」

「砂月さん。呆けるのは後にして下さい」


 ……違う。
 こいつ、イサじゃねえ。
 イサは俺を『砂月さん』なんて一度も呼んだことが無い。
 呼ぶ奴と言えば────。


「────ハザマか」

「ご名答です」

「……おいおい」


 お前ら二人揃って、生者の身体を借りるなよ。
 そう言うと、イサの内に宿る有間の実父は穏やかに笑んだ。
 ……少し気持ち悪いと思ったのは、言わないでおこう。
 サチェグは深呼吸を一つして、自分の両の頬を強くはたいた。
 立ち上がり、また深呼吸。

 襲いかかってきた夕暮れを今度は易々と回避し蹴り飛ばした。


「悪ぃな。ハザマ」

「いいえ。……あの子が、オレの?」

「ああ。お前の子供だよ」

「……そうですか」


 ほう、と安堵する。


「彼女にそっくりで良かった」

「家族の再会でもしとくか?」

「いえ。彼女の父親は、鯨ですから。オレは会わない方が良い」

「そうかい。そりゃ、俺の負担が軽くなって助かる。んじゃ、もうちっと俺の手伝い頼むぜ」


 実際は、鯨に気を遣ったのだろう。
 鯨は有間に対して本気で父性を抱いている。
 彼の為にも、今更実父が出しゃばるべきではないと己を律したのだ。
 鯨の血故に、鯨の代わりに死ぬ羽目になったと分かっているだろうに、それすらも何も思わずに。
 何処まで優しい奴なんだか、こいつは。
 サチェグは身構え、夕暮れに飛びかかった。


「桂月!! ひとまず三割は信用してやるからな!!」

「ええ、それで十分よ。そちらは決着が着くまでその人の相手をお願い」


 桂月はひらりと片手を振った。

 その含みのある笑顔に、やっぱ信用しなけりゃ良かったと、こっそりと思う。



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