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 冷たい夜闇の中に消えてしまった人物に伸ばした手は行き先を失い、力無く落ちる。
 その場にくずおれそうになった有間をアルフレートが支えた。
 故郷よりは寒くないが、事態に頭が追いつかず、処理しきれない現実を拒絶する剰り身体が瘧(おこり)の如く痙攣する。死んだ筈なのに、生きて成長した山茶花の笑みが頭の中からぐるぐると回って吐き気がした。

 何故彼女が生きている?
 あの時確かに目の前で殺されたじゃないか。
 うちの目の前で鉄球に押し潰されて、肉が、内臓が、骨が、微細な塊に変わって分裂して、真っ白な雪の地面に散らばって――――。


 濃すぎる血の臭いが、鼻腔を直接殴りつけてきたみたい、で。


 呼び起こされる記憶。
 生々しい惨状が目の前に広がるような、そんな錯覚に胃を握り潰された。強い圧迫感と腹から背筋を駆け上ってくる恐怖に食道を灼熱がせり上がった。

 口を押さえるも、堪えきれずに芝生へと吐瀉してしまう。手に付いた胃液の酸い臭いが精神を更に追い詰める。

 何故だろう……息が上手く出来ない。


「は……はぁ、はぁ……っ」

「アリマ! しっかりするんだ、アリマ!!」


 深い呼吸が回数を増し、むしろ苦しさを覚える。手足も、段々と痺れているような気がする。
 どうして、息をしている筈なのに……!
 不安感に襲われて気を取り乱しかけた有間を、不意にアルフレートが抱き込んで宥めるように頭を撫でた。


「ゆっくり、大きく息をするんだ。大丈夫だ、ここにはオレとお前しかいない」

「ぅあ……は、ハ、っはぁ……ひゅ……っ!」

「大丈夫だ、アリマ。長めに息を吐くんだ。ゆっくりで良い。急ぐ必要は無い。大丈夫だ」


 努(つと)めて穏やかに大丈夫という言葉を繰り返し、有間を落ち着かせようとする。頭を撫でていた手はいつの間にか背中へと移り、呼吸に合わせて押してくれた。

 時間をかけて呼吸を戻すと、どっと疲労感が押し寄せてアルフレートの身体にもたれ掛かった。アルフレートが頭を撫でてくるのに、目を伏せて力を抜く。胸を押さえていると、アルフレートを呼ぶティアナの声が聞こえた。だが、瞼を押し上げる気力も無い。


「アリマ……大丈夫っ!?」

「アルフレート、何が遭ったの」


 ティアナの後に続いたのは、エリクだろうか。


「精神的な過呼吸を起こしたんだ。今は話せる状態ではないし、何が遭ったかも……彼女の前では話さない方が良いだろう。取り乱し方が尋常ではなかったんだ。このまま、休ませてやってくれないか」

「……分かった。二人共、今日は帰れ。後は俺達で誤魔化しておく」

「すまない」


 アルフレートとマティアスらしき声の会話が途絶えた後、突然の浮遊感に襲われる。内臓が遅れて上がるような感覚に吐き気がこみ上げるが、吐き出したばかりでもう吐く物は無い。

 有間は心の中でティアナに謝罪しつつ、アルフレートの腕に身を任せることとした。



‡‡‡




 鯨の肩に、一羽の烏が舞い降りる。


「……殿下が、有間を連れて帰ったか」


 鯨は烏の頭を撫で、目の前に立つ少女をキツく、冷ややかに睨めつけた。

 赤い髪、赤い目の――――山茶花。くすくすと笑って小首を傾けてみせる彼女に、鯨は片目を眇めた。


「言った筈だ。俺も有間も、ヒノモトには二度と関わらぬと。そちらで勝手にやっていろ」

「駄目よ、狭間さん」


 山茶花は笑みを消し、不満そうに唇を尖らせる。手を後ろで組んで胸を張り、その場でくるりと一回転して見せた。
 すると、彼女の周りにぽつぽつと青白い火の玉が生じ、浮遊する。
 それが何なのか、一目で察した鯨は低い声音で山茶花を呼んだ。


「これ以上死人を喚び起こすな。お前とて理(ことわり)を外れた存在だ。これ以上背けば、輪廻に戻れぬぞ」

「別に来世がどうなろうっと知ったことじゃないわ」


 山茶花が手を解いて片手を振るう。
 それに応じて揺れた火の玉達は一斉に鯨の周りに移動する。
 一つひとつ見ているうちに、それぞれ揺らめく中に人の顔が浮かび上がる。火の玉と化した魂の元々の姿の一部分である。
 それらは全て、鯨と親しかった同族の者達であった。

 鯨を誘うように、周囲を回り始める。


「狭間さん。私や有間のことを考えてくれるのはとっても嬉しいけれど、どう足掻いても《終焉》は変えられないの。私達は女神様の見た夢を現実にする為の駒でしかないもの。盤上の駒は自分では動けないわ。ゲームに興じる誰かに動かしてもらわなくちゃ」

「……だが、俺はむざむざその通りに動いてやるつもりはない」

「それも、在るべき道筋に沿った選択でしかないわ。畢竟(ひっきょう)、行き着くところは同じなの」


 諦めて成り行きに身を任せた方が、楽で良いわ。
 断じる彼女に、鯨は目を伏せる。確かに、魔女の血を引く自分ですら、根の国の女神の予知を覆すには力不足。狩間も、本来は女神の一部である為に見込みも――――否、否定を担う彼女であろうとも、女神(はは)に逆らう意志だけは持たないのだ。


「ヒノモトは筋書き通りに進み、そして滅ぶわ。そうなれば有間も狭間さんも、もう苦しまなくて良いのよ。好い人を見つけて、幸せな暮らしを送れるの。とっても素敵だと思うわ」


 両手を広げて誇らしげに語る彼女に、鯨は問いかける。


「山茶花。お前は何故戻ってきた」


 強い想いが無ければ、お前はここにいる筈がない。
 淡々と問いかける狭間の手が烏から離れる。腰を低く沈めて拳を握る。

 山茶花は何も言わずに微笑む。
 鯨が殴りかかるまで、彼の問いに答えようとはしなかった。


「また会いましょう、狭間さん」


 鈴の如き余韻を引く可憐な声を残し、彼女は闇に紛れて姿を消した。



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