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二人の間に横たわる沈黙は、鉛のように重い。
アルフレートもディルクも、対面して座ってはいるものの、一向に口を開かなかった。
お互い話さなければならないと分かってはいる。
サチェグの療養中などは何度もそう思っては接触してみようと思った。けれども、結局は口が開けなくなってしまい、サチェグ達に気を遣われて終わりという体たらくだった。
このまま、成り行きに身を任せてはいけないと思うのに。
ディルクはともかく、アルフレートは覚悟をしていた筈だった。このヒノモトに入ったのは、ディルクを助ける為でもあったのだから。
だのに、どうして、自分の口が思うように開けられないのか……。
焦りと悔しさばかりが募っていった。
両手に拳を握ると、ディルクがそれに気付き、左目を眇めた。
ややあって、唇を引き結んだ後にゆっくりと開く――――。
「……心の底では、王位も竜の力も欲しくなかった」
静寂を打ち破った弟の言葉に、アルフレートは瞠目した。顔を上げるが、ディルクはアルフレートではなく雪と泥の混じった地面を見下ろしている。
「今更後悔していると言ったら、兄さん、あなたは僕を軽蔑するでしょうか」
「ディルク……」
敬語が、胸に突き刺さる。使わないで欲しいと言いたいのに、言えない。
ディルクは言葉を続ける。それはアルフレートに語っていると言うよりは、とても長い独り言のようであった。
「ザルディーネを遙か高い空から見下している時の僕は、怯えていた。けれど竜の力があれば、全てが上手くいく――――兄さんも、マティアスの側ではなく僕の所へ戻ってくると、信じていた」
結局は、駄目だった。
竜の力は剰(あま)りに強大で、矮小な子供一人に扱えるものじゃなかった。
だから、あの娘の笛の音が身体中、竜に操られていた意識にまで響いた時、安堵している自分がいたのだ。
あの娘が、兄さんが、邪眼の娘が、止めてくれた。
自分はただ、利用されていただけ。
何の力も無く、誰よりも子供だから、人形にされただけ。
もう少し僕が変わっていたら、こんなことにも、兄さんを傷つけることにもならなかっただろうに。
そんなことに、今更気付いた。
「ザルディーネで、僕と同じ歳の娘が瓦礫に足を潰して身動きが取れなかったのを見た。泣き叫ぶ娘を、その両親が必死に助け出そうとしていた。誰も彼も、恐怖に支配され、命を惜しんで、逃げ回っている中。自分の娘を助けようと、満身創痍で退けられもしない瓦礫を必死に退かそうとして、家族で一緒に逃げようとしていたんだ。竜となった僕は――――その家族を灼(や)き殺した。その寸前にも、両親は娘を身を挺(てい)して守ろうとしていた」
声音こそは静かだ。だが、その奥で悲痛に心が悲鳴を上げているのが、兄には分かった。
もう良い。もう話さなくて良い。
そう言うべきだと思った。
だが、やはり口は動かない。
「両親にあんなにも必死に守られた娘が、今になって羨ましく思うようになりました。僕の両親は……バルタザールと母さまは、同じ状況でそんなことをしてくれるのか、僕には分からなかった。でも、親じゃないのに、もしかしたらトウベイならそうしてくれるんじゃないかと、そう思った」
田中東平は、親でもない赤の他人のくせに、ままに穏やかな目で見ていた。そして、ディルクを化け物と言いながら、自分に足掻けと厳しい言葉をかけ、危険から護ってくれた。
そして最後に、人らしく、強く在れ、などと――――そんな言葉を、ディルクに遺した。
東平はディルクを我が子に重ねてはいないと答えた。
これは都合の良い勘違いだろうか。
それが嘘であると、あの時自分には思えたのだ。
……いや、勘違いであるなら、僕は勘違いをしたままでも良い。
本心では、彼が自分に向けていたものを求めていたのかもしれない。
血の繋がった、母親に。
「僕は、母さまに笑って欲しかった。たとえ何の力も無い僕に見向きもしなくたって、自分の子を王位に就けることでしか、心を保つことが出来なくなっていた母さまを見捨てることは出来なかった。ハイドリッヒ家の人間を王位に就ける為の、生け贄のようなものだったんだ。そんな母さまの幸せだけを願って――――もしかしたら僕を見てくれるんじゃないかと、心の隅で些末な可能性を勝手に期待して……マティアスや、母さまを裏切った才有る兄さんを憎み、利用された。最初から、僕には王になる資格は無かったんだ」
「ディ、ルク……」
「僕は謝らない。いや、謝れない。謝るよりも、償わなければならないから。謝ったって、何も戻ってこないから。無力な僕の自己満足の謝罪なんて、何の力も無い。むしろ謝らずに、永遠に愚かな王子であると恨まれ蔑まれ責められているべきなんだ」
ディルクは立ち上がる。
静かに滝に向き直り、「兄さん」
「ここには僕が残ります。ここを永遠の牢に、ここで独り、生きていく。そうすればあの邪眼も、兄さんと一緒にいられるでしょう。あの女の弔いも、僕が担います」
アルフレートは弾かれたように身を乗り出しながら立ち上がった。
堅く封じられていた口が、ようやっと自我に従う。
「しかし、ヒノモトはもうじき滅ぶ。その後はどうなるか分からないんだぞ! ここも、危険になるかもしれない! そんな中でお前を独り、」
「サチェグに聞きました。不老不死の術がヒノモトに存在し、サチェグ自身その術をかけていると。僕にもその術をかけてもらえば、一生僕が竜を封印しておける。ここが危険になると言うのなら、好都合。竜の力を欲する人間が近寄れなくなりましょう」
自分の身の危険も、罰だと言うのか。
アルフレートの言葉を待たず、ディルクは歩き出す。アルフレートが納得していない、許す筈もないと分かっているからだろう。
どうなるかも分からない化け物ばかりの世界に、たった独り弟を見捨てて残すなど――――。
彼に言葉届くうちにと、アルフレートは声を絞り出した。
「オレは、それを許す訳にはいかない。お前はカトライアにて再び封印しなければならない。ここにはオレとアリマが残る」
「……」
それは、兄の思いが溢れた、ファザーン王族としての言葉だった。
ディルクは、足を止めた。振り返らない。
また歩き出す――――。
その時だ。
「誰か!! 誰か来て!!」
ティアナの声が、空気を裂いた。
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