昔々、あるところに《宝》を預かった一族がおりました。
一族はその《宝》を守りながら、愛する人間達に惜しみ無く使って彼らを助けておりました。
ですが、人間はとても欲深い生き物です。
《宝》を欲し、人間は一族を物のように思い、奴隷として扱うようになってしまったのです。
一族は深く深く悲しみました。愛した人間達が自分達を裏切った。そうしたのは他でもない、自分達であると己を責めました。
《宝》を使えと強要してくる人間達に、一族は身も心も絶望と罪悪感に疲弊し――――とうとう人間達から離れることを決めてしまいました。
そして、誰も踏み入らぬ山の奥深くに屋敷を造り、世俗を離れ隠れ住むようになったのです。
……そうして一族の数を減らし、《宝》と共に消滅すべきであると。
人間達を欲望のままに狂わせてしまったその大罪を償う為に、一族は消滅を選んだのでした。
――――そして、今。
一族の最後の一人は、凶悪な仙女に連れ出されてしまったのです。‡‡‡
外は雨だ。
雨音に部屋の中の空気もずんと重く、いやが上にも気が塞ぐ。
○○は寝台に腰掛けながら外を眺めていた。
朝からずっとだ。
他に何かすることがあると言えばあるが、この気怠さが邪魔をしてどうにもやる気が起きなかった。
だが、じっとし続けているから、さすがにそろそろ退屈も嫌になってくる。
彼女は心なしいつもよりも重い腰を億劫そうに上げ、部屋を出ようと扉に手をかけた。
その時だ。
『こんにちは、○○さん』
「……、」
○○は軽く瞠目し、扉に手をかけて勢い良く開けた。自然と顔が綻んでしまう。
扉を開けた先には金髪のたおやかな佇まいをした、優雅な青年がいた。日の光を集めたかのような目映い髪はさらさらと美しい。○○も、初めて目にした時には妬ましくもあったものだ。
ほんの少しだけ驚いた様子の彼はすぐに穏やかな微笑を湛え○○に拱手する。
それに返事をすることも無く、○○は青年に抱きついた。
「こんにちは、張遼さん!」
さっきまでの鬱屈とした顔は何処へやら。まるで人格が入れ替わったかのように華やいだ愛らしい笑顔を咲かせ、胸に頬をすり寄せた。
張遼と呼ばれた青年も慣れたように彼女の背中を撫でる。
「今日は雨のようでしたので、呂布様に○○さんのお相手を勤めるようにと」
「そうなの? 嬉しい」
自分をの私欲と狂気に満ちた城に連れてきた呂布は大嫌いだけれども、こういった彼女の気遣いはとても喜ばしい。今度一度くらいは笑いかけてやっても良いかもしれない。
張遼の腕に手を絡めて甘えるようにすり寄って、○○は城の中を歩きたいと願い出る。
彼は快く了承した。
当然だ、彼は呂布の命令に忠実なのだから。呂布が○○の相手をしろと命じたのであれば、○○の願いには必ず応えてくれる。
そう、呂布に命令されれば。
彼女の一声で張遼は笑顔で○○を殺しもするだろう。
張遼にとって呂布は絶対的な主人だ。恋愛感情ではないけれども、掛け替えのない女性なのだ。
それは、彼女も十分分かっていること。
それ故にこうして張遼に惜しみ無く思慕を向けて、張遼の為に一族の《宝》を呂布に使ってやる。殺される時に未練が残らないように、満足して死ねるように、自分のやりたいままに張遼に寄り添うのだ。
呂布も○○の露骨な行動の真意になどとっくに気付いている。だから張遼を○○に付かせているのだ。
彼女程の仙女ならば○○に言うことを聞かせるなど造作も無い。屋敷から連れ出す際に○○の意識を支配して思うまま動く傀儡に仕立て上げることだって出来た筈。そうしないのは、張遼に対する○○の態度を眺めて楽しんでいるのだ。
女性を愛玩のように性的に可愛がる奇異なる趣向の彼女は、勿論○○ですらその対象とする。
だが張遼への想いを頑なに貫き呂布の淫靡な誘いを堅く拒絶し続ける。
呂布はその駆け引きにすら愉悦を覚えるのだ。
代々受け継がれた《宝》は、呂布という化け物を識(し)っている。如何に暴悪か、如何に異常か、長い長い歴史が識っている。
――――○○の持つ一族の《宝》とは、《記憶》のことだ。
千年以上にもなる彼女の一族の代々の記憶が、○○の頭に宿り、悠久の知嚢(ちのう)となる。そこには万病に効く妙薬も、賢人の神懸かった心算も、世の理そのものも含まれていた。
それは仙人からも咽から手が出る程に欲する、至高の叡智であった。
呂布はそれを独占している。張遼という餌を与えて○○から大知を引き出すのだ。
○○はそれでも構わなかった。
だって呂布に協力すれば、張遼と一緒にいられるのだ。
誰もいない屋敷でただただ無機質に過ごしていた彼女が何をしてでも欲しいと希(こいねが)う異性の為ならば、何だって出来た。よしや、先祖の顰蹙(ひんしゅく)を買おうとも。
世界でたった一人愛する男性と、重く苦しい城内を歩きながら、○○はふと頭痛を覚えてこめかみを押さえ足を止めた。
当然、張遼の歩みも止まる。
「どうかなさいましたか」
「いえ……少々頭が痛いだけだから。雨の日になるとどうしても頭痛がして」
「そうなのですか。では呂布様にお願いして、頭痛に効く薬をいただきましょう」
「要らないわ。何が入っているか分からないのに」
それにこの頭痛は治らない。
《宝》を引き出し続けるのならば、○○の脳は処理に限界を迎えて機能を停止してしまうだろう。頭痛はその危険を訴えているのだった。
だが《宝》を使えなければ○○に価値は無い。その時こそ殺されるか、正真正銘の呂布の愛玩にされてしまうか、どちらかだ。
まだ駄目。
まだ私は満足していないの。
まだ、まだ、まだ。
私は張遼さんの傍にいたい。
張遼の前に回り込んで彼の身体を抱き締めた。
抱き締めているとよく分かる。
彼が人間でなく、呂布に作られた人形であることが。
人形でも良い。
○○が初めて好きになったのは人形ではなく張遼なのだ。この熱い想いを向けるのは彼だけだと決めている。
「抱き締めて」
そう言うと、張遼はそっと優しく背中を撫でる。
○○が願えば張遼は従ってくれる。主人の命令に従って。
そこに、張遼の感情は無い。
張遼にとっても、○○は呂布の気に入った道具でしかなかった。
思慕など抱ける筈のない人形に対し一方的な愛情を示し続けるナマエは呂布でなくともさぞ滑稽に見えるだろう。
笑いたければ笑えば良い。
笑われても私はこの人を愛し続ける。
死ぬまでに満足出来るように。
「……何故でしょうか」
「どうかしたの? 張遼さん」
心底不思議そうな張遼の声に、○○は顔を上げた。
彼は○○を見下ろし、首を傾けた。
「どうしたの?」
もう一度問うと緩く瞬きして、
「息が、し辛いのです。○○さんはいつもと同じ力である筈なのに」
「そうなの? 肺に何か異常でもあるのかしら」
張遼の胸にそっと手を手を当てると、手首を握られる。
「不思議でなりません。あなたの頭痛は私には止められない。そう思うと、途端に息がし辛くなる」
何故、なのでしょうか。
独白して張遼は手首を放す。
依然不思議そうに瞬きを繰り返した。
そんな彼に、○○は微笑まずにはいられなかった。
……そう。そんなことまで呂布に言われているのね。
胸がつきりと痛む。
けれど。
それでも。
餌である彼の言葉が、嬉しくて仕方がなかった。
だから○○はまた張遼を抱き締めるのだ。
そこに、空虚しか無いとしても。
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