「よぉ、お嬢ちゃん」


 背後から呼ばれた瞬間、全身が硬直した。
 深呼吸をしてゆっくりと身体を反転させれば、そこには顎を撫でる青年が立っていた。
 鞘に《頑丈に》収められた大剣を背負い、腰帯に三節棍を挟んだ彼は見た目以上の年を感じさせる。趙雲の一つ年下だと聞いているのだが、壮年の達観した落ち着きと渋さを感じさせる。

 シ水関にて初めて顔を合わせた時は世平と同じ年代だとばかり思っていたのだけれど、趙雲に否定されて驚いたものだ。

 不殺を掲げ公孫賛に絶対的な忠誠を誓う彼の名は●●。
 武ではあの呂布にも匹敵する。これは関羽自身はっきりと目にしている。
 不殺を貫く理由は一番仲の良い趙雲すらも知らないそうだ。元々各地を放浪する風来坊で、確かな素性も不明である。生まれが冀州であることくらいしか定かでない。

 それでも人徳は確かで、公孫賛も人柄を見込んで家臣にと乞うたのであった。
 常識に囚われない彼の人の良さは猫族に対する態度に関しても現れている。


『あぁ、どうも。お嬢ちゃん、珍しいねぇ。人間の下らん戦の中に猫族も巻き込まれてるとは』


 とは、初対面の折に言われた言葉である。皮肉ではなく、純粋に猫族の悲運を慰めていた。
 その後に劉備と親しくなり、世平とも談笑する仲になり――――●●は自然と猫族の中に溶け込んだ。

 彼は誰にでもするりと懐に入ってくる。
 あの夏侯惇や夏侯淵ですらふとした時に隙を作ってしまうように、曹操が異様な程に警戒するように、掴み所が無く、相手のふとした油断を引き寄せてしまうのだ。
 わざとなのか無自覚なのか……そこも分からない。

 けれども彼の不殺の信条、親しい人間への態度には嘘偽りが一切無く、それ故に猫族も無条件で信を寄せていた。

 ただ……関羽に関しては、信を寄せすぎているきらいがあるのだけれども。


「あ、あのっ」

「はは、相変わらずの林檎だねぇ」


 久方振りに会う●●の鷹揚な声音で告げられた己の状態に、関羽は頬を両手で押さえようとして、手に荷物を持っていることに気が付いた。
 そうだ、今日は公孫賛様に野菜を差し上げようと来たのだ。
 折角会えたのだけれど、仕方がない。劉備も会いたがってるから、また後日改めて会いに来れば良いのだし……。

 そう思って口を開こうとすると、●●はあの飄々とした渋い笑みを浮かべて関羽へ手を差し出した。
 関羽はえっとなって彼を見上げるが、視線で手にした野菜を示されて納得した。


「公孫賛様に会いに行くんだろう。老生(ろうせい)が持って行くさ」


 未だそんな年ではあるまいに自分を年寄り扱いして、●●は関羽の手から野菜を片手で取り上げた。軽々と持って城へと歩き出す。


「帰りも老生が送っていこう。最近賊を討伐したばかりでねぇ。残党がいるかも分からん」

「そうなの? じゃあ、お願いするわ」


 普通に返せたことに安堵する。
 内心ではらしくなくはしゃいでいた。隠すのも一苦労である。
 深呼吸をまた二つして隣に並ぶと●●は笑みを濃くし、関羽の歩幅に合わせて歩みを弛めた。



‡‡‡




 関羽は●●が好きだ。
 彼が側にいるだけで上機嫌になれるし、長くいられるだけで心が浮き立って余計に落ち着きが無くなってしまうのだった。

 けれども●●は人間で、関羽は猫族で。人間達の間で十三支と蔑まれる自分が想いを告げたところで、彼は受け入れてくれるだろうか? 万が一受けれてくれたとしても、周りの●●を慕う人々が彼に失望してしまわないだろうか。
 彼の人徳は彼の一番の長所だ。それを傷つけてしまうことが、関羽は恐ろしかった。

 どうしようもない恋心を持て余しながらこのままの関係を維持するべきだと理性では思う。
 されど関羽の本心は気付いて欲しくて仕方がない。●●が欲しくてたまらない。
 相反する感情の板挟みに胸が絞め付けられた。
 嗚呼、自分はどうするべきなのだろう。
 ……頭が痛い。

 蒼野への帰り道、関羽は●●の後ろでこめかみを押さえた。
 ●●は黒髪を風に靡かせ悠然と歩いている。その頼もしい後ろ姿に抱きつきたくなる自分は、もう末期だ。


「良い風だ。お嬢ちゃんは贅沢だねぇ」

「へっ? な、何?」


 唐突に話を振られて仰天する。頓狂な声を上げてしまって頬を赤らめた。

 それを肩越しに振り返り、●●は咽の奥で笑う。


「足下はちゃんと見ておいた方が良い。転んで怪我をされちゃあ、老生が護衛する意味が無いからねぇ」

「え、ええ。気を付けるわ」


 恥ずかしさに俯くと、「俯きすぎて老生にぶつからないでくれよ」と揶揄された。二人きりの状況でそんなことになったら、混乱してしまう。
 頬を両手で押さえ、溜息を一つ。
 好きだと言ってしまいたい。そうすれば少しはこの重くて重くて仕方がない気持ちが軽くなるのではないかと、そんな逃げにも似た思考が、関羽の中にあった。そんなことが絶対に無い、むしろ逆の結果になることは自分自身十分分かっている。


「そう言えば、この間趙雲に見合いの話が来てねぇ。あいつの驚いた顔と言ったら無かった。今度からかってやると良い。面白い反応が返ってくるよ」

「そ、そう。でも趙雲もそういう年なんだし、良いんじゃないかしら。●●だって、その……そういうことは考えないの?」


 そこで●●は肩越しに関羽を振り返る。おかしそうに笑う。


「こんな風来坊を好む女がいるのなら見てみたいもんだぁね」


 ここに一人いると訴えたいのだけれど、臆病な自分が口を塞いだ。余計なことを言わないように。

 俯き加減になったのに、●●は転ばないように再び注意する。

 関羽はそれに頷くことで返した、



‡‡‡




「やんちゃ坊主達のお出迎えだ」


 村に到着するなり●●はおかしそうに言った。予想通りと言わんばかりににやにやと笑い、こちらに走ってくる少年達を微笑ましそうに見つめる。

 走ってくるのは張飛と劉備だ。その後ろから、呆れながらもゆっくりと蘇双と関定が付いてきている。
 劉備は関羽に飛びつき、張飛は敵意を剥き出しにして彼女と●●の間に割り込んで彼を睨む。

 関羽はすかさず張飛を退かした。


「姉貴!」

「張飛、邪魔」


 毎度のことなのだけれど、張飛は大袈裟なくらいに傷ついたような顔をしてがくんと肩を落とした。
 彼がどうして自分と●●の仲に文句を付けてくるのか分からないが、そんな張飛が正直鬱陶しいし、苛立つことも多々ある。

 関羽は劉備をやんわりと剥がして張飛の頭に拳骨を落とした。張飛が悲鳴を上げても張飛が悪いと断じる。


「ごめんなさい、●●。いつもいつも張飛が失礼な真似を……」

「いやぁ? 若い頃は何にでも真っ直ぐで直情的なもんさ。おじさんにはそういう時期は無かったから、少し羨ましいねぇ」


 そんな年じゃないのに。
 おかしそうに言う●●に関羽も呆れて笑い、首を傾けて片眉を上げた。


「ああ、そうだわ。良かったらお茶でも飲んでいって。時間があればだけれど」

「ん? 時間はあるさ。老生は真面目だからぶらつく前にやるべきことは済ませるんでね」

「嘘つけ!! 絶対ぇサボってんだろオメー!!」

「……張飛」


 拳を掲げてみせると、張飛は小さく悲鳴を上げて距離を取る。捨てられた子犬のように見つめる弟分を、関羽は黙殺した。

 すると、そこで蘇双達も合流する。


「よ、●●。相変わらず中身老けてんなぁ」

「そりゃぁ、おじさんだもの」

「……趙雲より年下で何言ってるのさ」


 見た目と年齢を裏切り老いを装い飄々とした●●の態度に、蘇双も関定も呆れる。毎度のことなのだからいい加減慣れても良いだろうに。
 そう思いつつ二人に苦笑を浮かべると、不意に関定が関羽を見て手招きした。


「関羽、ちょっとこっち」

「どうしたの?」


 関定は●●に断って、関羽と張飛を連れて近くの家屋の影に入った。後ろからとてとてと劉備もついてくるかと思いきや久方振りの●●に話をせがんでいた。

 関羽を目の前に立たせた関定は、肩に手を置いて「で?」と至極真面目な顔で問いかけてきた。


「え……何?」

「馬鹿。ここでお前の答えるべきは●●との仲についてだろうが。いつ告るんだよ」


 告る――――告白。
 その言葉を理解した時関羽の顔が爆発した。真っ赤な頬を押さえ、一歩後退する。


「こ、告白なんてそんなこと……!」

「関羽お前、知らねぇの? ●●ってこっちでもあっちでもモテモテなんだぜ? ほぼ周りの独身女性はあいつ狙いなんだって覚悟しとけって言ったろ。お前それで良いのかよ」

「良くないけど!」


 けれどこの関係が悪い方向に壊してしまったらと思うと、怖くて怖くて仕方がないのだ。
 きゅっと下唇を噛み視線を落とすと、張飛が間に割り込んで声を荒げた。


「姉貴!! 絶対、それっ、恋愛とかじゃねーから!」

「え?」

「アレだよ、アレ! 憧れとか、勘違いとか――――そんなの!」


 必死に言い募る彼は、余程関羽と●●の仲を引き裂きたいらしい。
 彼らしい直情的な行動も、しかし今の関羽の逆鱗に触れた。


「……し、しょうがないじゃない! 好きになっちゃったんだもの!!」

「ぶふっ!!」


 拳を力の限り張飛の鼻っ柱に叩きつける。
 懇親の一打をまともに受けた張飛は顔を押さえて悶絶した。


「わたしだって、シ水関で会った時、●●のことをこんなに好きになるなんて思ってなかったわよ! ●●が人間だって分かってても、男の人として好きになるだなんて! わたしだって、わたしだって……男の人を好きになることくらいあるけど……」


 しゅんと耳を伏せて、尻窄みになっていく彼女に、関定が張飛を殴る。彼女が本気で●●を異性として見ているのは、誰の目にも明らかだ。関定が張飛もここに連れてきたのは、さすがに張飛もそれを分かるべきだと思ったからだった。


「……悪い、ことだとは思うわよ。●●は人間なのだし……でもわたし、●●が好きなのよ! それを勘違いだとか憧れだとか、勝手なこと言わないで!」


 もう一度張飛に拳骨を落とす。
 そして関定を睨めつけて●●のもとに戻ろうとした関羽はしかし、足を止めた。


「……え」

「あー……」


 丸聞こえなんだがねぇ、お嬢ちゃん達。
 困った風情で顎を撫でる●●が、すぐそこにいた。

 馬鹿、と蘇双が呟いたような気がする。


「……あ、あの、●●! 今のは、あのっ」

「あぁ、こんな熱烈な告白は初めて受けたよ、蘇双」

「だろうね。隠す気無いみたいだし」

「はっはっはぁ。さて、困った」


 顎を撫でながら、彼は関羽に近付いた。

 どうしよう、どうしよう……まさかこんな形で!!
 関羽は赤らんだ顔で青ざめ、見るも悲惨な顔である。緊張に強ばった身体は言うことを聞かず微動だにしてくれない。

 ●●は目の前に立つと、屈んでがちがちに固まった関羽の顔に間近に顔を寄せる。鼻先が微かに当たったのに掠れた悲鳴を漏らすと、彼の低い笑声。
 近い。とんでもなく近い。
 ばくばくと早鐘を打ち出した心臓が、早くも破裂してしまいそうだ。●●に殺されると、本気で思った。


「え、えと……、」

「――――もし、」


 もし、それが本気なら。
 ●●は目を細め、関羽の下唇に親指を乗せた。


「さすがの老生も、ここに触れたくなるかもしれないねぇ」


 関羽。
 囁くように呟かれた己の名前に、関羽の頭の中で何かがぷつんと切れた。



 そこから先の記憶が無い。



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