……趙雲は手にした木簡を取り落とした。
ばたばたと床を転がっていくそれらに、慌てたのは彼ではなく目の前の女性である。
「趙雲殿! どうなされたのだ! ……あれ? 趙雲殿? 趙雲殿!?」
反応を示さない同僚に、○○は彼の顔の前で手を振ってみる。
ややあって、はたと我に返った趙雲はぎこちなくかぶりを振った。心なし、青ざめていた。
「……っ、い、いや、何でもない」
「そうか。それで、どう思う。何か、病気なのだろうか」
「……」
趙雲は苦笑を禁じ得なかった。
疎い疎いとは思っていたが……まさかここまでとは思っていなかった。今まで武将らしく振る舞っていたのはそうするべきだと彼女自身が思い込んでいた為で、中身は女性らしい筈だった。
だが、これは確かに病的な鈍さである。
「……つまり、蘇双の前だとお前の心臓が跳ね上がり早鐘を打つ。それに加えて温暖である訳でも身体を動かした訳でもなく、全身が暑くなる。そして平静を保っていられない、と?」
「うむ」
「……それで何故気付かないんだ」
明らかに、蘇双を異性として意識しているじゃないか。
片手で顔を覆い、深々と嘆息する。
それをどう勘違いしたのか、○○は狼狽した。
「まさか、本当に病気なのか!?」
「……いや、そうではないが」
ある意味では病気なのだが、それを言うと更に面倒になるので止めておく。
趙雲は木簡を一つ一つ拾い上げて、○○の頭をその一つで軽く叩いた。ぎゅっと目を瞑って肩をすくめる彼女に、唇を歪める。
「それは別の者に相談した方が良い。……そうだな。関羽はどうだ? 彼女なら、対処法も教えてくれるだろう」
「ふむ……分かった。そうしよう」
軽く握った拳を顎に添え、小さく思案した。
それを眺めながら、趙雲は目を細めた。
色恋沙汰にここまで厄介だとは予想外であったが、彼女にその兆候が見られたことはとても喜ばしい。それが、蘇双であるなら尚更だ。
趙雲から見ても、○○は蘇双に誰よりも心を許している。そんな相手が出来た上に彼に気があるのだ。名前の兄から彼女のことを任されている趙雲が喜ばない筈がない。
これで彼女も幸せになれれば御の字だ。
○○はあまりに悲運すぎた。
それを埋める程の幸福を得られるのなら、自分は何だってするつもりだ。それが、○○の兄の願いでもあろう。
趙雲に礼を言って早速蒼野へと向かう彼女の後ろ姿を見送り、彼は口角を弛めた。
‡‡‡
「――――と、言う訳なのだが」
蒼野は猫族の村。
関羽は趙雲とほぼ同じ反応を示した。
「……、……え、えぇと……つまりそれは、病気と言うよりは……ああ、いえ、病気と言えば病気なのかもしれないのだけれど」
「何!? ではやはり私は病気なのか!?」
「ああ、ごめんなさい! 病気は病気でもそんな危険な身体の異常とかではないの! だから落ち着いて○○!」
青ざめて己の身体を抱き締める○○に即座に補足する。
何とか彼女を落ち着かせて、関羽はゆっくりと、分かり易いように話した。
「相手は、蘇双だけなのよね。なら、きっと蘇双に対して特別な想いがあるんだと思うの。それが身体に現れているのかも」
「特別な想い? 蘇双殿に?」
むう、と唸って思案する。
真剣に悩む○○に、関羽は眉間を押さえずにはいられない。
呆れたというか、いっそ感心するというか……。
どれだけ鈍いのこの人は!
自分もあまり強くは言えないくせに、関羽は○○が自ら答えを導き出すのを辛抱強く待つ。
やがて、
「……そうか、分かった!」
「そう! 良かっ、」
「私が蘇双殿を武人として誰よりも尊敬しているからなのだな!」
「絶対違うわ!」
趙雲。駄目だわ、わたし。これで恋愛に持って行くなんて、絶対に無理。
鈍い。鈍すぎる。
武人としての精神がそうさせているのだろうか。
いや、さすがにそんなことは……。
頭を抱えそうになって、きょとんと首を傾げている○○に言い聞かせる。
「あ、あのね。落ち着いて聞いて欲しいの。○○は蘇双のことが好きなんだと思う。勿論、異性として!」
はっきりと言えば分かるだろう。
そう思って口調厳しく突きつけると、○○は大袈裟なくらいに驚いた。これには関羽も驚いた。
「私が? まさか!」
「どうして?」
「我らは友人だもの」
……。
殴ったらどうになかならないかしら。
彼女の硬すぎる真っ直ぐな思考に、関羽は眩暈を覚えた。
……駄目よ、関羽。
これで怒ったりして投げたりしたら駄目。
これは蘇双の為よ。何としてでも自覚させないと。
自身にそう言い聞かせて、関羽はがっしりと○○の肩を掴んで顔を間近に近付けた。
「○○」
「む?」
「まどろっこしいから手っ取り早く蘇双の方へ行きましょう」
論より証拠。
百聞は一見に如かず。
もう、本人の前に自覚させた方が確実かもしれない。
そう思った関羽は奇妙な使命感を抱いて○○を外に連れ出した。
‡‡‡
蘇双は鍛錬後で汗を掻いていた。頬を上気させ、汗で艶やかな髪が顔に張り付く様は何処か艶美だ。蘇双は男である。なのに、女にも勝る色気をままに放つのだ。
蘇双は手拭いで汗を拭きながら、○○と関羽に気付いて首を傾けた。
「珍しいね、二人が一緒にいるなんて」
「うん。ちょっとね」
ほら、と○○を蘇双の前に押し出す。
この時すでに、彼女の頬は赤かった。これで、尊敬の念故だなどと言うのだ。絶対に違うのに。
「○○。尊敬する蘇双よ。気になることがあるんでしょう? 確かめなくっちゃ」
「む……い、いや。確かにそうなのだけれど、」
○○は歯切れが悪い。
惑うように視線をさまよわせ、あー、うー、と無駄に声を発しては言葉らしい言葉を発しない。
急かすように強めに肩を叩けば、
「あー、……いや、その、毎度思うのだが、鍛錬直後の蘇双殿は色気があるな」
「そう? ○○の方が十分色っぽくて綺麗だと思うけど」
……。
……。
「「え?」」
今、何て言った?
揃って蘇双を凝視すると、蘇双は微笑んで○○の頬に手を添える。
「真っ赤な果実みたいで、こうして見ると女性らしく見えて惹きつけられるよ」
「……ひっ!?」
「はいっ?」
我が耳を疑う発言を聞いた。聞いてしまった。
関羽は悲鳴を上げてその場から離れた○○と蘇双を交互に見、顎を落とした。これは、予想外の展開だ。蘇双が言いそうに無い言葉を言っている。
何となく不穏なものを感じて恐る恐る問いかける。
「そ、蘇双? 失礼なことを訊くけれど気を悪くしないでちょうだい。あの……今のって冗談?」
「ううん。本心。○○、黙ってると女性の色気が結構あるんだ。気付かなかった?」
「え……」
絶句。
○○を見やれば、彼女はそれまで以上に顔を真っ赤にして、口を魚のようにぱくぱくと開閉させていた。
それに蘇双が近付いて手を取る。
「そうだ。折角村に来たんだ。二人きりで散歩でもしようか」
「二人っ、き、り……だと?」
戦慄している。いつもと違う蘇双に彼女は戦々恐々としている。このままでは追い詰められて逃げ出してしまいそうだ。
関羽が助け船を出そうと身を乗り出すと、折良くそこに張飛や世平が名前や関羽を呼ぶ。
それに、○○は即座に反応した。
「ちょ、張飛殿! 世平殿! 丁度良かった!! 是非私と手合わせを――――」
――――が。
果たして彼女は船には乗れなかった。
「○○。ボクよりも張飛や世平叔父の方が良いの?」
「うぇ!?」
眦を下げて、傷ついたように見上げる蘇双。その手はがっちりと○○の腕を掴んでいた。
……そこで、ようやっと関羽は蘇双の表情から彼の真意を知る。同時に、自分のしようとしていたことが無駄だったように思えて、馬鹿馬鹿しくなった。
「酷いよ。ボクはこんなに○○のこと気に入ってるのに」
「き、きに……いっ!?」
「駄目?」
「な、なん、駄目って、その……〜〜〜ッ!!」
「あっ、○○!」
それは一瞬のことである。
○○は蘇双の手を持ち前の剛力で振り払い、全速力で世平達の方へと逃亡した。
それを、蘇双は《良い笑顔》で見送る。
関羽は一歩彼から距離を取った。
「……蘇双。あなた、○○をからかってるでしょう」
蘇双は関羽に肩をすくめて見せた。
「八割は本気だけどね。あそこまでしないと、あの人には通用しないでしょ」
それに、牽制にもなる。
口にこそ出さなかったが、恐らくは内心付け加えている筈だ。顔がそう言っているから。
「いつ、○○の気持ちに気付いてたの?」
「この間。あれは分かり易いでしょ。本人は、全く自覚してない馬鹿だけど」
……確かに。
世平達に頭を下げつつ、何かを問われて大きく首を左右に振る○○をおかしそうに見つめながら、蘇双は目を細める。鋭い眼光は、○○に笑いかける張飛に向けられている。
関羽が呼べば、彼は酷薄に口端をつり上げた。
「まあ、暫くは今までの《お礼》も兼ねて遊ばせてもらおうかなって」
「だから、さっきの態度だったのね……」
……趙雲。○○をどうにかしなくても、多分どうにかなると思うわ。
隣で愉しそうにしている蘇双にを横目に、関羽は右北平にいる人間の友人に心の中でそう言った。
○○の厄介さを誰よりも理解しているらしい彼女の想い人が、三人のもとへ向かう。
関羽はもう彼を止める気は失せていた。
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