「それじゃあ、かりて行きます」

「ああ。陶謙様も、何か面白い本があればいつでも貸して下さるそうだ」


 ぺこり。小さな幼女が頭を下げて礼を言う。
 目の前には長身の武将、趙雲。

 くりくりとした大きな目が子犬のように可愛らしい幼女は、趙雲の腰にも到達しない程に小柄だ。細い腕で自身の顔よりも大きく腕よりも太い木簡を大事そうに抱えている。
 胸元まで流れる美しい緑の黒髪は木簡にかかっていた。
 歩く人形とも言える愛(う)い姿に趙雲は相好が崩れるのを止められない。

 表情があまり動かない、物静かなこの幼女が笑うと、肌理細かな白い肌色も相俟って山に咲く鈴蘭を彷彿とさせる。

 そう、この幼女はまさに鈴蘭だ。


「ありがとうございました、趙雲さん」

「ああ。○○、兄によろしくな」

「はい。こちらこそ、これからも猫族のことよろしくおねがいします」


 礼儀正しい彼女は小走りに自宅の方へと駆け去っていく。
 その子犬にも似た小さな後ろ姿を見つめながら、趙雲は破顔してきびすを返した。用事を済ませた彼は、想いを寄せている少女のもとへと足先を向けた。



‡‡‡




「おー、○○。今日もまた難しそうな奴借りたのか? 物好きだな」

「こんにちは。《かくぶつちち》はとても大切なことです」


 すれ違った関定に、至極真面目に返答する姿は、見た目の幼さにそぐわない。
 関定は感じ入ったように吐息混じりに声を漏らし、○○の頭を撫でた。


「たまには外で遊べよ。体力作りも、勉強には必要だからな」

「しょうちしています。その点もぬかりはないので大丈夫です」

「そうか。そりゃ安心したよ。じゃあ、頑張れよ」

「ありがとうございます。……あと、玉蘭お姉さんがおこってましたよ」


 え、と関定が固まる。ひくりと口角をひきつらせて○○に真実か問う。

 ○○は冷静に、冷ややかに首肯した。


「浮気性の気が強いからそういうことになるんですよ。そろそろ終わりかもしれませんね。でも自業自得です。多情はなおすべきです。手おくれだとは思いますが一応曲がりなりにも本気だと言うのであればそのしせいくらいは見せた方が良いです。それで玉蘭お姉さんの気持ちがはなれないと言うかくしょうは全くないのですが、まあ、せいぜいいつもいじょうに情けなくあがけば少しはましな状況になるかも。いっそ別れた方が玉蘭お姉さんは幸せになれるかもってわたしは思いますけど」

「無表情に言うの止めて! マジ止めて!」

「じゃあさっさと急いでべんかいしてこい女のテキ。ヘタレ。クズ」


 冷然と言い放つ○○に、関定は頭を抱えて拒絶するように首を左右に振った。
 また行けとすげなく促すと、関定はううっと半泣きになって、


「本当に蘇双に似て来たな、お前……」

「蘇双お兄さまはじまんのお兄さまです」


 ○○は胸を張って言う。

 張蘇双は、○○の年の離れた兄である。
 冷静沈着な兄は○○の自慢で、彼の妹として相応しい教養を身につける為、○○は毎日毎日勉学に励む。勿論、鍛錬も欠かさない。世平の弟子として賢明な武人を目指している。
 それに自分が賢くなって強くなれば、兄は心から褒めてくれる。嬉しくて嬉しくて、また頑張ろうと思うのだった。

 その蘇双に似てしまったのか――――鈴蘭によく似た○○は、鈴蘭のように毒を持っていた。
 整った可憐な相貌から放たれる毒舌な刃の如く容赦が無い。無表情で冷ややかに長ったらしく言われるので、胸に来る。
 関定は泣きそうな顔になって、○○の言うように玉蘭のもとへと走っていった。それが、傍目から見ると○○に泣かされて逃げているように見えるのは言わずもがなである。


「……別れれば良いのに」


 女のテキ。
 そう呟いて、○○は木簡を抱き直して歩き出した。
 すると、さして歩かぬうちにまた話しかけられる。


「あら、○○。陶謙様からまたお借りしたの?」


 関羽だ。
 黒曜のような綺麗で安らかな闇を湛えた黒い瞳を持つのは、彼女しかいない。○○にとって見慣れた金色よりも、彼女の目の方が綺麗で大好きだ。前にそれを言った時、彼女は泣きそうな顔をして喜んだ。

 関羽は○○の傍に腰を屈め、頭を撫でて問いかけた。

 ○○はこくんと頷いた。


「関羽お姉さん。はい。先日おかりした木簡はもうよんでしまったので」

「そう。いつもいつも偉いわね。いつか、わたしに色んなことを教えてちょうだい」

「はい。約束はわすれてません」


 はっきりと告げると、関羽はとても嬉しそうに笑う。
 関羽はとても優しい。物心ついた頃から関羽を実の姉のように慕っていた。蘇双と関羽が夫婦になってくれれば良いのに、と密かに願っていたのは秘密だ。

 関羽は「頑張ってね」と可愛い笑みを浮かべると、用事があるからと城の方へと出かけていった。

 ……あ、趙雲さんにあえたかな。
 とっても仲の良かったのだから、趙雲はあの後関羽に会いに行った筈だ。
 お城に出かけたよって、教えた方が良いかもしれない。

 ○○はこくりと頷いて趙雲を捜そうと駆け出した。



‡‡‡




 趙雲は、張飛に一方的に《口》撃されていた。
 張飛は関羽に想いを寄せている。だから趙雲という天然で関羽を口説く強敵を看過出来ないのだった。

 ○○は趙雲を呼んで彼の側に立った。


「趙雲さん、関羽お姉さんはお城に行かれましたよ。今から行けばまにあうと思います」


 袖を引いて教えると、趙雲は軽く瞠目した。

 張飛が悲鳴を上げるのは無視だ。


「そうなのか? 入れ違いになってしまったな。ありがとう、行ってみるよ」

「はい」


 ○○の頭を撫で、趙雲は小走りに城への道を行く。

 それを静かに見送った○○は、張飛に怒鳴られて五月蠅そうに顔を歪めた。


「○○、何で教えるんだよーっ! 折角隠してたのに!!」

「だって趙雲さんと関羽お姉さん大好きだもん。張飛は……ばかだし」

「オメーより年上だろーがぁ!!」

「年上でもかくしたっているんですねって、よくよくべんきょうさせていただきました。ありがとうございます。これからもはんめんきょうしでおねがいします。張飛を見本としてよりいっそうしょうじんして行きます。あくまでわるい見本として」

「こんの……!!」


 ぐっと拳を握り締めるが、相手が幼女であることから拳骨を落とすことは無い。頭が悪い(○○談)彼でも、その辺の分別はあるらしい。……いや、単純に彼女の兄からの報復を恐れてのことかもしれない。
 落ち着き払っている○○と、年下相手にムキになっている張飛。この図もまた、猫族の中では見慣れた光景であった。

 くうぅと悔しげに唸る張飛に、○○は鼻で一笑する。


「○○このヤロー……!!」

「黙れ馬鹿」

「何だとー!!」

「わたしじゃないです」


 冷静に言い返す。
 張飛はえっとなって目を軽く瞠った。

 では、誰か。
 周囲を見渡そうと首を巡らせた張飛の肩を、その《誰》かが後ろから掴んだ。
 彼はそれを振り返り――――ひきつった悲鳴を上げた。


「馬鹿は馬鹿らしく鍛錬でもしてなよ。頭の中筋肉で埋め尽くせば」

「ば、ば……ば馬鹿じゃねー!!」

「おびえているのがまる分かりですよ。張飛」

「うるせー!」

「張飛が五月蠅い」


 がつっと、容赦の無い拳打。
 腹にもろに食らった張飛はその場に撃沈し、うずくまる。

 それを冷淡に見下ろし、○○は彼に不意打ちを与えた者に歩み寄り、ふにゃりととろけるような笑みを浮かべた。
 それに、相手もまた穏やかな笑みを浮かべる。


「○○。今日も木簡を借りたんだ」

「はい、蘇双お兄さま」


 蘇双は彼女の頭を撫で、「偉いね」と。

 そんな短い一言だけで○○は身体が浮上するようなふわふわとした心地になった。
 嬉しい。
 とっても嬉しい。
 もっともっと頑張ろうと思う。

 ○○は大きく頷いた。


「ちょ、蘇双! お前の妹毒舌過ぎるだろ!? どうにかしてく、」

「○○は事実を言ってるだけじゃないの?」

「蘇双ー!!

「だから、五月蠅い」


 半泣きになって叫ぶ彼に、蘇双は舌を打って○○の手を取る。
 そして女顔負けの笑みを浮かべ、


「今日は○○の勉強を見てあげるよ」


 途端。
 彼女は表情を輝かせた。


「はい!!」

「だからオレを無視するなー!!」

「張飛のだみ声って、耳ざわりですね」

「いつも聞いてんじゃん!?」

「五月蠅い馬鹿張飛」

「馬鹿馬鹿言うなー!!」


 うがー!! と叫ぶ張飛に、二人は顔を見合わせてくるりときびすを返した。
 五月蠅いので、もう構っていられない。二人で過ごす時間が削られてしまう。
 二人は張飛を無視して、自宅へと向かった。


「○○、それ、持つよ」

「ありがとう」


 重たい本をずっと持っていたので、腕も疲れて強ばっていた。
 兄の厚意をありがたく受け、○○は木簡を蘇双に手渡した。

 空いた手を繋ぎ、ゆっくりと○○の歩幅に合わせて家路を辿る。

 その道程で、


「ねえ、蘇双お兄さま」

「何?」

「お兄さまは、わたしがかしこくてつよくなったらよろこんでくれますか?」


 そう問いかけると、蘇双は笑って首肯した。


「そうだね。とても嬉しいよ」

「じゃあ、がんばります。蘇双お兄さまや関羽お姉さんみたいにすてきな大人になって猫族を守ります」

「うん。僕も、協力してあげる」


 ○○は喜色満面で頷く。

 が、兄が「――――でも」と不意に低い声で言うのにきょとんと瞬き。


「大人になって好きな人が出来たら、絶対に教えて」

「? 分かりました」


 蘇双の綺麗な笑みに、○○は素直に頷いた。

 敬愛する兄が、何の目的でそんなことを言ったのかも知らずに。



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