良かったと言えない。
 こんな結末を望んではいなかった。
 どうして、こんな愚かなことをしたのだと、声を荒げて問いかける。
 けれども応えは無く。

 あのいつもの笑顔は無い。
 話しかければ必ずあの笑顔を見せてくれた。何ですか、なんて可愛らしく首を傾げて見せてくれた。
 冷たくなった彼女の身体は、無反応。
 氷そのもののようにも思える体温が無言で愚かな恋人を責めているかのように、劉備には思えた。

 深い悲しみは刃へと形を変えて劉備の精神を容赦無く傷つけた。
 怒濤の如く押し寄せる慚愧(ざんき)が眩暈を引き起こす。
 全て自分の所為。
 彼女が《未来》を選び取ったのは自分の所為。

 全て全て全て自分の所為なのだ!

 嗚呼、僕はなんてことをしてしまったんだ。
 僕がもっと強ければ、抗う力を持ってさえいればこんなことにはならなかったのに!

 嘆いても嘆いても、氷が温度を取り戻すことは無い。
 抱き締めても変わらない。
 その事実は、変わらないのだ。

 彼女は、もう二度と帰って来ない。




‡‡‡




 劉備は飛び起きた。
 荒い呼吸に襟を握り締める。
 全身にびっしょりと汗を掻いていた。

 ……悪い夢を、見た。
 本来劉備が歩む筈だった重く辛い《未来》だ。

 今歩いている時間はその《未来》とは違う別の《未来》だったけれど、 時代の波に流されずにそれを選び取れたのは、劉備の力ではなかった。
 何もかも、作用したのは彼女の力だけだ。
 劉備は何も出来ていない。

 疲労感に無力感も重なり、胸中でうねり捻り合って強い吐き気を催した。

――――逢いたい。

 彼女に、無性に逢いたい。
 窓を見やれば、外はまだ闇が深い。灯り無しには歩くのも危険だ。

 けれど、劉備はこの苦痛も心細さも慰めたくて、寝衣姿のまま家を出た。
 時々小石に足を取られながらも、望む姿を目指して歩き続ける。
 幸い、彼女の家は劉備の家からは程近い。二度程転倒して辿り着いた。呪いが失せた今もなお、身体は幼いまま。子供の姿では、何かと不便だ。

 しんと静まり返った彼女の家の引き戸を開き、中に入る。
 それと同時に視界に入ってきた灯りに足を止めて反射的に片足を引いた。不法侵入という後ろめたさから視線を下に落とす。

 されど、彼にかけられたのは叱責の言葉ではなかった。


「いらっしゃいまし、劉備様」


 甘い甘い、優しい言葉だ。
 顔を上げると、灯りの側にいる女性が、こちらを向いて微笑んでいた。縫われた双眸はいつ見ても痛々しい。

 愛しい愛しい、可愛い人。

 劉備は大股に彼女に近寄って彼女を抱き締めた。

 女性は――――今一番逢いたかった愛する人は、それを優しく受け止めてくれた。背中に手を回し、あやすように軽く叩いてくれる。
 胸に耳を寄せれば、確かに聞こえる鼓動。
 生きている。
 彼女はちゃんと、生きている。


「○○……」

「何ですか、劉備様」

「僕が来ること、分かっていたんだね」

「ふふ……何となく、あなたのことは分かります。恋する女性の底力ということかしら。力が無くなっても、あなたのことは分かってしまうんです」


 ○○は悪戯っぽく笑う。

 ○○の力は、失われてしまった。
 原因は劉備の中に封印されていた金眼の力である。

 もう、三ヶ月前になる。
 劉備は金眼の力を暴走させた。邪に染まった彼は狂気の欲望に身を委ね、大勢の人間を殺め、生者の心に恐怖を植え付けた。
 凶悪な衝動を愉しむ彼を止めたのは、○○であった。

 曹操に操を奪われ監禁された彼女が、精神不安定、満身創痍にも関わらず己に宿る力全てを以て金眼の力を自身の身体に移動させたのだ。
 その為に彼女は死にかけた。増幅された金眼の力は、○○の身体には厖大(ぼうだい)な苦痛を与えた。

 本来なら、邪に耐えきれなかった彼女の死と共に金眼の力は消失する筈だった。

 だが、実際は違う。
 ○○は己の生命力すらも使い、無理矢理に金眼を完全に死滅させたのだ。
 ぎりぎりのところで己の命を保った彼女は、旬日(じゅんじつ)の間意識不明の重体。その後に目覚めた彼女はかつての力を全て失っていた。

 それでも構わないと○○は気丈に言って見せたが、劉備にも関羽にも、その下で力の消失を嘆いているのは一目瞭然だった。
 ○○はこれまで、力で猫族を守ろうとしてくれた。
 それが、彼女は力を失ってしまい、何も出来なくなってしまったと思い込んでいた。

 そんなことは無いと言うのに。
 誰もそんなこと思っていない。
 猫族の長たる劉備が猫族の心の支えであったように、○○もまた、そこにいるだけで猫族の力となった。

 ○○が、猫族の為に命を張り、生きて帰ってきてくれたことが、とても喜ばしい。
 彼女が生きて笑えるようになったことに、安堵を抱いている。
 猫族は彼女に荒事は何も望んでいない。いつもそこにいて、柔和な笑みを見せてくれれば、おっとりとした調子を見せてくれれば、それだけで良かったのだ。

 彼女は、それが分からないでいる。


「○○、○○」

「どうなさったのです?」

「君が生きてくれて良かった」

「まあ、またそのようなことを」


 ○○は劉備の頭を撫でる。関羽とは違う撫で方に、身体が弛緩していく。心が満たされていく。


「君が目覚めなかった間、ずっとずっと苦しかった。どうして僕はこんなに弱いんだろうかと、自分が憎らしかった。力を求めて暴走して……僕や猫族を守る為に君を苦しませて……僕は本当に無力だ」


 目頭が熱くなる。
 目を伏せて肩口に顔を埋めると、○○は沈黙した。

 ややあって、


「劉備様は、無力ではありません。それに……あの時わたくしが金眼の力をこの身に移したは、厳密に言えば劉備様の為でも、猫族の為でもなかったのです。感謝されることも、気に病まれることもありません。わたくしは、猫族の敵に身体を許してしまったばかりか、最後の最後にお役目を放棄してしまった愚か者なのですから」

「え……」


 劉備が顔を上げると、○○は笑みを消す。眉を下げ、囁くように己の罪を明かした。


「わたくしは、曹操に純血を奪われても、あなたと離れたくなかった。その為だけに命を懸けたのです。その時のわたくしは、猫族のことなどどうでも良くなっていました。劉備様のことも考えておりませなんだ。わたくしは……幼き頃の己の約定を違えてしまいました。自分の力を、自分の為だけに使ってしまったのです」


 まことに、申し訳ございません。
 消え入りそうな声で謝罪して劉備を離す。
 劉備は彼女の頬に手を当てた。そろりと撫でて名前を呼ぶ。

 それすらも、やんわりと拒まれる。


「純血を奪われたことも、私欲に走って力を失ったことも、巫(ふ)としてあるまじき咎(とが)です。本来ならば、わたくしはあそこで死ななければならなかった。けれども劉備様のお傍にいられないことが嫌で、苦しくて、悲しくて――――わたくしは、愚かな女として金眼を殺め別の《未来》を選んでしまったのです。わたくしのしたことは、ただの気随(きずい)の醜行。感謝される度に、生を喜ばれる度に、わたくしの胸は痛みます。本当に、猫族の皆様に申し訳が無くて――――」

「そんなことは無い!」


 確かに、私欲の為なら巫としての使命に背く行いである。
 しかし劉備はそれを咎める気は毛頭無かった。きっと、猫族もこれを聞いたところで感謝や喜びを翻すことなど無い。
 だってそれは、《○○》としての行動だっただけなのだから。
 許す許さないなんて、有りはしない。

 誰も、巫としてだけ○○を必要としているのではないのだ。
 巫である前に○○は○○であり、仲間であることは何ら変わり無い。
 それなのに、彼女は罪だと責め立てる。

 劉備は強い口調で否定した。


「そんなことは無いよ、○○。猫族は皆、君に巫としての価値を求めてはいない。○○が○○としていれば良いんだ。僕も、皆も、それは罪じゃないと断言出来る。君は猫族の巫である以前に、○○なんだ。僕の大切な人なんだ。曹操に汚されたとしても、僕はそんなことどうでも良い」

「劉備様、」


 でも、と続けようとした彼女の口を、己のそれで塞ぐ。
 両の頬を挟んで、ゆっくりと離す。

 このまま彼女が自分を苛み続ければ、いつか自ら命を絶ってしまうのではないだろうか。
 そんな恐れを抱き、劉備は縋るように縫われた目を親指で撫でて再び口付ける。

 そもそも、劉備が暴走したのは○○を守れずに苦しめてしまったその自責の念からだ。
 曹操に滅茶苦茶にされ、城の奥に監禁されてぼろぼろになって、それでも劉備に笑いかけてくれた瞬間、彼は激情に囚われて金眼の闇に囚われたのだ。
 ○○は何も悪くない。


「お願いだ……僕を一人にしないでくれ。あんな気持ちは、もう沢山だ」

「……劉備、様……」


 劉備は愛おしげに○○を見つめ、


「僕は今、嬉しいんだ。情けないけれど、君が僕の傍にいたいと心から望んで金眼の呪いを移してくれたことが、とても。……だって、それだけ君が僕のことを愛しているということだもの。僕は君や関羽達を苦しめるだけで何も出来なかった。最後まで、大切なものを何一つ守れなかった。そんな愚かな僕から離れたくないと、心から思ってくれた。……どうか、ずっと僕の傍にいて欲しい。僕と一緒に、猫族の皆と穏やかに暮らしていこう」


 死んで欲しくない。
 その一心で、思いの全てを言葉に乗せて○○に伝える。

 彼女は口を薄く開けたまま静止していた。
 声を発したかと思えば劉備を呼ぶばかりだ。


「僕は、生きていて欲しいんだ。○○は罪を背負ったんじゃない。巫としては間違った行いでも、僕達は肯定し続ける。だから、君を守れなかった情けない僕と、このまま……この関係でいることを許してくれ」


 縋って懇願する。

 ○○は息を吸って、詰まらせた。
 劉備をまた呼ぼうとした声は掠れ、声の代わりに永久に塞がれた目尻から涙がこぼれ落ちた。

 それを親指で拭ってやると、さまようように両手を伸ばす。
 劉備は彼女を強く抱き締めた。


「誰よりも、何よりも愛してるんだ。君を。ずっと、ずっと」

「劉備、様……っ」

「弱い僕で、ごめん」


 ふるふるとかぶりを振って否とする。
 劉備様は悪くない。
 そう、声ならぬ声で返す彼女に、劉備は更に愛おしく思う。その影で、弱い自分を何度も謝罪した。


「今度は必ず君を守る。だから、」

「……っ、傍に、置いて下さい。劉備様」


 一生、いさせて下さい。
 縋るような声は、懺悔でもするかのようだ。
 劉備は見えないと分かっていながらも大きく何度も頷いて、瞼に唇を押し当てた。

 彼女の全てが愛おしい。
 今度こそ、彼女の全てを守りたい。
 何があろうとも、この平和な世界の中で。
 単純かもしれない。けれどもその為なら、幼い身体でも、何だって出来るような気がした。



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