……どうしよう。
 幽谷は困惑した風情で色違いの双眸を揺らした。



‡‡‡




「……」

「……」

「……何をしている?」

「見ての通りそのままですが」


 彼女は仰向けに地面に寝転がった姿勢のまま、胡乱者を見るかのような蔑視を向けてくる夏侯惇に淡泊に返答した。

 だが、よしや夏侯惇でなくとも一目で彼女が何をしているのか分からぬだろう。

 外套を脱いだ身体の上には小さな動物達が固まって眠り、それを挟むように二頭の虎が右から左から顔を乗せて眠り、更に彼女の身体に寄り添うように狼や鹿などが寄り添って眠っている。
 ……何故大量の動物が、四凶の身体に寄り集まって寝ているのだ。

 いや、彼女が動物に好かれやすいと言うのは知っている。知っているが、こんな状態に陥った四凶を見たことなど一度も無かった。
 せめて彼女も眠っていれば、少しは印象も違っていただろうに。

 一歩後退すると、不意に胸に頭を置いた虎が身動ぎした。

 反射的に身構えるが、虎は起き上がることは無かった。……爆睡の様子である。
 凶兆と疎まれる四凶に、自然界の強者、弱者が集ってくつろいでいる様は異様だ。何故動物達は四凶に怯えないのか。不思議でならない。

 斯様にも間抜けな姿を晒す四凶に歯が立たなかったなどと、正直信じたくはない。


「……貴様がいないと十三支が騒いで五月蠅い。さっさと戻って黙らせろ」

「そうしたいのは山々なのですが」

「何だ」

「虎達に飛びつかれた時に運悪く岩にぶつかってしまい腰の骨を折ってしまいました故に、この状態をどうにかすることは可能でも、関羽様達の元に戻ることが出来ないのです」

「……」


 すぐ側に地面から顔を出した岩がある。恐らくはそれにぶつかったのだろう。
 確かに、彼女の身体を枕に爆睡する二頭の虎は、普通のそれよりも一回り程大きい。四凶と言えども同時に飛びかかられてはそういったことも有り得るのかもしれない。

 が、だ。

 あまりにも、間抜けに過ぎる。
 こんな奴に俺は負けたのかと、過去の屈辱感に上塗りされる。
 拳を握り締めて、ふと手が剣の柄に当たった。

 瞬間、夏侯惇の脳裏にふとした欲がよぎる。

 誰かが、囁いた。
 ……そうだ。このままこいつを殺してしまえば。
 彼女は、今身動きが取れない。
 今のうちに討ち取ってしまえれば、曹操の最大の脅威は消えるのではないだろうか。

 十三支がいつまでも曹操に従っているとは到底思えない。現段階でも曹操に対する反発は強いのだ。
 いつか十三支が蜂起した時、四凶がいれば曹操の咽元をいとも容易く掻き切ってしまえるだろう。
 そんな危険があるのだから、今ここで始末した方が後々の憂いが消える。四凶がいなくなったとしても十三支が屈強であることは変わりないが、それでも――――。


「――――グルルルル」

「っ、な、」


 地を這う唸りに思考は中断せしめられた。
 はっとして視線を落とせば先程身動ぎした虎が目を覚まし、夏侯惇を勇ましく獰猛な目で睨めつけていた。
――――否、虎だけではない。
 気付けば全ての動物が目覚め、四凶の敵を睨め上げているのだ。
 徐々に徐々に唸り声が重なり、死者の呻吟(しんぎん)のようにも思える低すぎる合唱を作り上げる。

 夏侯惇の思考を察しているのか……背筋にひやりとしたモノを感じ夏侯惇は顎を少しだけ上げた。
 剣を抜こうとすると、


「お止めなさい」


 四凶が叱りつけるように言うと、途端に合唱は止んだ。


「退いてちょうだい」


 四凶には動物達は至極従順である。
 そろそろと四凶から離れて行儀良く座る動物達を視認し、彼女は片腕で上体を起こす。腰の骨を折ったのも嘘ではないらしく、左に異様に傾いた奇妙な格好になってしまっている。
 彼女を案じるように、不安げに近寄ってきた兎の頭を撫でて微笑んだ。

 横にぴったりと寄り添った虎にもたれ掛かり、四凶は小さく息を漏らす。平素の無表情でありながら、その実腰の骨折は四凶であろうと辛いのだろうか。

 さっさと帰れと言わんばかりに一斉に見てくる動物達の刺々しい視線を受け流し、夏侯惇は四凶の姿を見下ろす。
 目を伏せれば、一見普通の女だ。異常な膂力を備えた凶兆であるとは思えない。
 関羽よりも遙かに強い化け物だとは、到底――――。


「――――まだ、私に負けたことを気にしておいでなのですか」


 どきり。
 目を伏せたままに放たれた言葉に夏侯惇は息を詰まらせた。

 ゆっくりと、瞼が上がる。左右で色の違う瞳は真っ直ぐに夏侯惇を見据えた。


「私は人ではないと、世界の穢れなのだと申した筈です。あなたとはそもそも立つ場所が違う。人間の枠組みの中で頂を目指せばよろしいでしょうに」

「何、だと……?」

「割り切られて下さいまし。その方が、楽でしょう」


 呆れたようにも、感心したようにも取れる声音で、夏侯惇を諭す。

 が、しかし。


「……ふざけるな」


 それは、夏侯惇の矜持を逆撫でするものだった。

 曹操の脅威は人間だけではないのだ。
 その最たる者に諭されたことに――――化け物に気を遣われたことに、彼は激怒する。
 歯噛みし、夏侯惇は彼女に詰め寄った。

 胸座を掴もうと手を伸ばし――――。


「あ、」


 がぶり。



‡‡‡




 虎が、伸ばした手に噛みついた。


 唾液で濡れた硬い歯の感触に夏侯惇は声にならない悲鳴を上げた。
 軽く挟まれる程度で痛みはないものの、相手が猛獣であるだけで危機感は十分煽られる。
 引っ張ろうとして、その手を止められた。

 四凶である。
 顔を強ばらせて、無表情を維持しようと努める彼女は夏侯惇にもたれ掛かるようにしながら、夏侯惇の手首を掴む。夏侯惇に負担がかからないように踏ん張ってはいるものの、それも長くは続かないだろう。


「本能的な恐怖に任せて引っ張れば途端に噛み砕かれます」


 ひきつった声は近い。
 ほぼ反射的に身を離そうとするが、四凶が「手が無くなりますよ」と恐ろしい脅しをかけてくる。

 憮然と口を引き結ぶが、いつかの時よりも接近――――否、密着した状態に、夏侯惇はそれまでのやり取りも、相手が忌まわしい凶兆であることも吹き飛んだ。近付くことで四凶の《女》を意識してしまったのだった。

 先程とは違う意味で心臓が跳ね上がり、早鐘を打つ。

 密着している四凶は、そのことには全く気付いていない。


「放しなさい」


 キツく咎めるように言い、虎を睨めつける。
 虎は途端に大人しくなった。悄然と夏侯惇の手を解放し、その場に座り込む。拗ねた表情で四凶を見上げる。

 四凶はそれに首を左右に振って見せた。

 すると、ゆっくりと身を翻し、その場を離れていく。
 落ち込んだ風情の虎に従うように、他の動物達も散り散りとなってそれぞれ帰って行く。
 四凶は細く息を吐き、夏侯惇から離れ近くの木に寄りかかった。

 ようやっと離れた感触に肺の全ての息を吐き出した。

 それを彼女は怪訝そうに見ながら、


「いちいち穢れの言葉に感情を荒立てなさいますな」


 手が無くなれば、武だの何だのと言えなくなります。
 そんなことくらい分かってくれと言わんばかりに大仰に嘆息される。

 それによって調子の戻った夏侯惇は舌打ちした。だが、まだそわそわと落ち着かない。


「そ……その穢れに愚弄されて、流せる筈がないだろう。俺は貴様が人外だからという理由で、お前に負けたことを白紙に返すつもりは毛頭無いからな。必ず貴様を討つだけの武を手に入れる」

「ですから……、」

「貴様は必ず曹操様の大きな障害となるだろう。曹操様の障害を取り除くのは俺達将兵の役目だ。必ず、越えてみせる」


 四凶は眉間に人差し指を当て、目を伏せた。


「もう勝手にして下さい。どうでも良いです」


 その場に座り込み、軽くかぶりを振る。

 彼女の至極面倒そうな態度に、夏侯惇は乱れてささくれだった腹のうちを逆撫でされるような感覚を得、憎らしげに四凶を睨めつけた。
 気に食わない。
 自分が、凶兆に見下されているようではないか。
 彼女本人にそんな意図は一切無いのだが、頭の固い夏侯惇はそう断じて一人腹を立てた。

 舌打ちを残して、彼は大股に元来た道を戻っていく。

 そのさなかに、不意に思い出すのだ。
 四凶に密着された時、身体に触れた異様に柔らかい感触、を――――。


「――――」


 刹那、それが女のどの部分に当たるか分かって体温が急上昇。すぐさま首を激しく振って頭の中から追い払う。
 そして今度は逃げるように足を速めるのだ。
 それと同時に、当初の目的――――五月蠅い十三支を黙らせる為に四凶を連れ戻すということの失念にも気付かずに。



 猫族が曹操の城に押し掛けたのは、夏侯惇の帰城とほぼ同時であった。



‡‡‡




「本当、融通の利かない人ね」


 物憂げに天を仰ぎ、幽谷は呟いた。
 割り切ってしまえば簡単なのだ。
 だのに、彼はそれをしようとしない。幽谷を越えるとまでのたまった。

 動物達で身動きが取れなくなった私を、殺そうとしたくせに。

 本当に、面倒な男である。

 頭頂に降り立った小鳥を指先で撫でながら、幽谷はふと、己の腰を見下ろした。


「……どうやって、帰れば良いのかしら」


 歩けないことも無い。現に先程は夏侯惇に近付けた。
 だがこの森から猫族の陣屋は遠く、それまでに砕けた骨が中を傷つけてしまう可能性もなきにしもあらずだ。
 そうなってしまえば、関羽達に怒られてしまうのは明白で。

 さて困ったと、幽谷は苦笑を滲ませた。



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