○○は、関羽とさほど年が変わらない。
 彼女が猫族を守る為に武を磨いたように、○○も身を粉にして才を精一杯磨いてきた。

 だけれども、彼女を前にするといやが上にも自分がどれだけ井の中の蛙であったか思い知らされる。

 幼少の頃より父が気に入っていた趙雲の婚約者として、そして幽州の由緒正しい武門の子供として、戦えないながらに父に兵法を学び、どちらにも相応しい女を目指す為には努力を惜しまなかった。無情な言葉を浴びせられても、己を奮い立たせる激励と受け止め更なる向上への活力とした。
 そんな自分に、○○は誇りを持っている。戦えなくても、大人しくとも、城の軍議に出て趙雲達が無事に帰還出来るように策を思案することが出来た。昔から自分が荒事に飛び込むことが不得手だとは分かっているから、それだけで○○は良かった。

 だが、関羽はそんな○○の矜持を粉々に崩してしまったのだ。

 女性らしい可憐さの中に秘められた熱く強靱な芯。誰にも折らせない、強固な思いのこもったそれは○○の誇りを陳腐にしてしまう。
 関羽は戦う姿もまた、美しい。
 粗忽な自分よりも、疾風迅雷を思わせる無駄の無い神速の体捌(たいさば)きを、彼女は趙雲との鍛錬で見せた。

 彼女は自分などとは比べものにもならぬ程に気高い花だった。
 趙雲と並んでも遜色が無い。

 こんな、頭以外に何も出来ない、無力な自分よりも。



‡‡‡




 ○○は穏和に過ぎる娘であった。
 無礼な行いを受けてもいつでも微笑み受け止める。そして荒波を立たせずに事を済ませてしまう。

 何をしても怒らない。彼女は我慢強い。
 それ故に、武官や文官達の八つ当たりされやすかった。さすがに父親のこともあって武将はそれを案じてはいるものの、本人がそれで相手の気が晴れるなら構わないと公言している為に何も出来ずにいた。
 趙雲や家族に多大な心配をかけていることも知らず、○○は毎日のように的役を甘受する。それでどうして心労で倒れてしまわないか、彼女を案じる周囲は気が気でない。

――――けども、その理由は存外単純なものである。


「綺麗に晴れて良うございましたね、趙雲さん」

「ああ。予定が崩れなくて本当に良かった」


 手を引かれながら、右北平の城下をのんびりと歩く。
 婚約者として、二人で過ごせる時間が○○にとって何よりも癒しとなった。
 くすくすと笑って趙雲の後をついて行く。

 父が婚約を決めてより、○○は趙雲の隣には絶対に立とうとしなかった。妻となる者が夫となる者と対等になってはならないからだ。
 友人としてなら並んでいられたその立場も、夫婦となるなら入れない。

 関羽なら、話は違ってくるだろうけれど。
 ほうと吐息を漏らし、○○は目を伏せる。
 最近身体が重い。ままに眩暈も起こった。

 下らないことで悩んでいるからなのかもしれない。

 婚約者の座を関羽に譲った方が良いのかもしれない、なんて。
 ○○が婚約を破棄したいと言えば父が悲しむだろう。
 だが彼は猫族――――関羽のことも気に入っている。彼女を婚約者にと推薦すればきっと嫌な顔はしない筈だ。

 関羽は戦えるだけじゃない。聡明なだけじゃない。可愛いだけじゃない。○○に無いもの、足りないものを全て持っている。
 立ち姿だけでも随分と差がある。
 夫婦であっても趙雲に並んで良いのは関羽だけだ。

 見慣れてしまった趙雲の背中を見つめ暗鬱と溜息をこぼす。
 今日は、気温が高いのかもしれない。うっすらと汗をかいていた。


「今日は蒼野にでも行こう」

「蒼野に? 猫族の村に行かれるのですね」

「ああ。前々から外に出たいと言っていただろう」


 確かに言った。何ヶ月も前に。
 覚えていてくれたことを嬉しく思いながらも、○○はその下に渦巻く濁流に微笑みを強ばらせた。
 行き先は猫族の村。
 関羽のいる村だ。
 ああ、また醜い自分を知ることになる。

 行きたく、ない。


「嬉しい。わたくし、猫族の方々にご挨拶をしたかったのです」


 穏やかに微笑む彼に、嫌とは言えずに○○は思ってもないことを口にした。
 そして、そんな自分に辟易する。



‡‡‡




 趙雲の愛馬に揺られて到着した村は、右北平の城下とはまた違った穏やかさがあった。
 見渡す限り緑が広がっており、自然の中に自然と溶け込むようにその村はある。まるで最初からそこに存在したかの如く、すっかり蒼野の風景に馴染んでしまっていた。

 だが、長閑なこの村に入ってしまうと時間が途端に緩やかになったような錯覚に襲われる。
 初めての感覚を、しかし○○は味わうことは出来なかった。

 どうも、先程から頭がぼうっとする。更に暑くなったような気もする。
 もしかして、風邪……なのかしら。
 額に手を当てるが、体温が高いのか自分では分からない。

 いけない。こんな時に体調不良になるなんて。
 ここで倒れてしまったりしたら趙雲さんだけでなく猫族の方々にも多大な迷惑をかけてしまう。
 まだ大丈夫よ。屋敷に帰るまで我慢出来るでしょう、○○。
 自分に言い聞かせ、趙雲の後ろに続く。手を貸そうとされたけれど、初めて来る場所だから自分の足で歩きたいと、妙なことを言って断った。

 城下とは違う、剥き出しの土は凸凹としていて、油断すれば慣れていない○○は足を取られてしまいそうだ。
 趙雲が比較的なだらかな道を選んで村の中を案内しているのを右から左に聞き流しながら、早鐘を打つ胸を押さえて熱い吐息をこぼした。


「○○、どうかしたか?」

「いいえ。見たことも無い虫がいますから、それが珍しくて」


 怪訝そうな彼を見上げて微笑んでみせれば、その眉間に皺が寄った。
 けれども彼が口を開く前に、


「あら、趙雲じゃない。○○も連れてきたのね」

「……関羽」


 どくり。
 心臓が跳ね上がった。
 じわじわと浸食する気持ちの悪い感情を必死に抑え込み、○○は関羽に一礼する。


「こんにちは、関羽さん」

「こんにちは。いらっしゃい、○○。ゆっくりしていって」


 関羽は、綺麗な微笑みを浮かべる。
 それが○○の黒い感情を増幅させるとも知らずに。

 ごめんなさいね、関羽さん。
 心の中で謝罪を繰り返す。
 こんな自分、大嫌いだ。
 苦虫が食道を這いずるような感覚に吐き気を催しながら、趙雲に笑いかけた。


「趙雲さん。わたくし、少し村を見て回りたいのでここで失礼させていただきますわ。猫族の方々にもご挨拶したいですし」

「なら、俺も、」

「趙雲さんは過保護です。わたくしも関羽さんと年は変わらないのですから、一人で回れますわ。関羽さん、趙雲さんをお願い致します」

「え? でも、」


 苦笑して、二人に頭を下げた○○は足早に側の小道に入る。

 その時だ。


「ぁ……」


 ぐらり、と強い眩暈に襲われた。

 頭を押さえて家屋の壁にもたれ掛かった○○はそのままずるずると地面に座り込んでしまった。ぐらぐらする。気持ち悪い。

 駄目、我慢、しなくちゃ。
 迷惑、が、かかっ、て――――。



 暗転。



‡‡‡




 ここは何処だろうか。
 ○○は目覚めて上体を起こし、周囲をぐるりと見渡した。
 ……○○の、私室である。

 ○○は小首を傾げた。
 どうしてここいいるのだろうか。
 確か、わたくしは……。


「……蒼野で倒れたのだったわ」


 やっぱり風邪だったのね。
 嘆息を漏らし、頬に手を添える。
 猫族の村で倒れたのだから、きっと大迷惑になった筈だ。趙雲がこの屋敷まで運んでくれたのであれば無駄な労力を使わせてしまった。

 身体は幾らか軽い。暑くもない。
 窓から外を覗けば外は朝日が昇りかけている。半日以上も眠っていたのだ。
 ○○は寝台を降りて着替え、部屋を出た。

 家人に昨日のことを訊ねようと廊下を歩いていると、ふと後ろから慌ただしい足音が聞こえた。

 足を止めて振り返ると、それは趙雲でやけに焦った表情をしている。
 手間が省けたかもしれないと向き直ると、双肩を掴まれた。


「趙雲さ、」

「何故ここにいるんだ!」

「えっ?」


 何故って……起きて昨日のことを知りたかったからだ。
 目をしばたたかせて怒り心頭に発する趙雲を茫然と見上げる。

 ……もしかして、昨日風邪で迷惑をかけてしまったことをお怒りになっているのかしら。


「あの……昨日は申し訳ありませんでした。折角お誘いいただけましたのに、猫族の方々にもとんだご迷惑をかけてしまって」

「俺はそれに怒っているんじゃない」


 言葉を続けようとして、趙雲は口を噤む。悔しげにも見える彼は○○の肩を放すと身を屈めて、断りも無く○○の身体を抱き上げた。


「えっ、な、趙雲さん!?」

「部屋に戻れ。昨日の今日なんだ。悪化すればまた苦しむことになる」


 大丈夫だと言うが、彼は断固として○○を降ろさない。大股に歩いて○○の私室へと戻る。寝台に寝かせて側に腰掛けた。まだ、怒っている。

 気まずい心地で、趙雲に背を向けて横臥すると、不意に趙雲が感情を押し殺したような声で問いかけた。


「何故体調が悪いことを黙っていたんだ」

「気付いたのは、蒼野に至ってからでしたから……それまでは何となく不調かなと、それくらいにしか」

「……お前が倒れた時、昔を思い出した」


 昔……?
 もしかしてあの時のことかしら。


「確かにあの時は流行病で死にかけましたけれど……今回はそれ程深刻ではありません」

「風邪でも悪化すれば容易く死んでしまう」


 趙雲は身を乗り出し○○の身体に覆い被さる。
 その感触にぎょっとして彼を見上げると、今度は彼は苦しげだ。

 しかし近い。ここまで接近するのは、恐らくは初めてだ。
 視線を逸らしながら逃れようと身を捩ると、腹に手を回されて抱き寄せられてしまう。小さく悲鳴が漏れた。


「あ、あの、趙雲さん。近う、ございます」

「我が儘も言わない。身体の不調も訴えない。何もかも自分で解決しようとする。昔からお前は、どれだけ周囲に心配をかけたら気が済むんだ。俺がどれだけお前のことを……」


 髪を梳きながら頭を撫でられ、○○は狼狽える。今日の趙雲はいつもと違っているのだ。これに戸惑わない筈がない。
 せめて何とか離れてもらおうと言葉を尽くすものの、趙雲はむしろ頑なになって首筋に顔を埋めてくる。風邪とは違う熱に身体が火照った。


「あ、あの、そうです。関羽さん達に会いたいです。昨日の失態を謝らなければ……っ」


 沈黙。


「……駄目だ。金輪際蒼野には連れて行かないと決めた」

「えっ」


 また怒った。
 ころころと変わる趙雲に、ついて行けないでいると不機嫌な婚約者は唐突に○○に口付けて、何故か自らも寝台に横たわるのだ。


「なっ、なん!?」

「同じ閨(ねや)で寝るのも、随分と久し振りだな」

「そんっ、え、共に寝るのですか!?」


 悲鳴を上げて顔を真っ赤にして逃げようとする○○を腕の中に閉じ込めて、動きを拘束する。
 耳元に口を寄せて、囁いた。


「俺の婚約者はお前だろう。このくらいのことは、構わない筈だ」

「……う、ぁっ」


 ○○以外を娶るつもりはない。
 彼女の悩みを見透かしているかのような――――いや、絶対にそれは有り得ないのだけれど、○○にはそんな風に聞こえた――――趙雲の言葉に、○○はぎゅっと片目を瞑って身を堅くした。

 今は何よりも、恥ずかしくて暑くて苦しくてたまらなかった。



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