※ifの話。はらからがもしも夏侯惇ではなく劉備落ちだったなら。



 幽谷が風邪を引いたのは、劉備のもとに新しい器で戻ってきてより始めてのことだった。
 一目で風邪であると見抜いた劉備が即座に寝かしつけなければ、許昌の町中で倒れていたことだろう。

 荒く呼吸を繰り返す彼女は、横になるなり緩やかに気を失った。
 劉備の自宅に訪れた直後のことであったから、幽谷が眠るのは彼の寝台だ。

 私室の静寂を僅かに震わせる苦しげな呼吸音に、劉備の胸を締め付けられた。
 看病してはいるものの、彼に出来ることは限られている。それが口惜しくて仕方がなかった。
 戻ってきてくれた彼女を守ると誓った矢先にこれだ。一瞬で病気を癒すことも、この身に移すことも自分には不可能だ。薬の知識も、無い。
 無力感に苛まれながら、幽谷の熱い頬を撫でた。

 幽谷は、目を覚まさない。

 劉備は眦を下げた。


「……ごめんね、幽谷」


 汗ばんだ顔に張り付いた髪を退けつつ、玉のように浮かぶ汗を拭き取る。
 幽谷には悪いとは思ったけれども、着替えもした。劉備の寝衣である為に華奢な身体には大きすぎる。
 せめて関羽がいてくれれば彼女に手伝ってもらえもしたのだが、生憎と彼女は今曹操の城だ。幽谷を一人にして頼みに行くことは出来ない。

 幽谷の手を握り、劉備は寝台に顔を埋めた。



‡‡‡




 日が天頂より下り始めた頃、劉備を訪れる者が在った。
 劉備が出迎えれば幽谷の面倒を関羽に任されている猫族の老女で、幽谷が劉備の家にいると聞き菓子を焼いて持ってきてくれたのだ。
 以前、幽谷が猫族の隠れ里に来たばかりの頃に風邪で倒れた際、彼女も看病を手伝っていた。

 劉備にとっては、彼女の訪問は幸いだった。
 すぐに幽谷のことを伝えると、彼女は表情を一変させて劉備の私室に駆け込んだ。
 寝台で眠り込む幽谷の様子を窺い、小さく唸る。


「久し振りに風邪を引いたわねぇ。知り合いに薬を持っている人がいないか、探して参りましょう」

「ありがとう」

「いいえ。劉備様は、幽谷から絶対に離れないで下さい。目が覚めたら、意識が朧でも起き上がってしまうでしょうから」


 確かに、幽谷ならそうしそうだ。
 劉備が大きく頷くと、老女は安堵した風情で笑み、足早に家を出た。

――――ああ、これでひとまずは安心だ。
 薬を分けてもらうなどと考えもしなかったことを少しだけ恥じ入りながら、幽谷の側に腰掛けた。

 今、自分は動揺しているらしい。
 慌てて、慌てて……思考の所々が欠如しているようだ。
 本人としてはちゃんと落ち着いているつもりだったのだけれど……もう、幼くはないと言うのに。
 何度繰り返したか分からない謝罪を慚愧の声に乗せ、苦しむ幽谷にかける。

 幽谷はそれに答えるように、微かに身動ぎした。だが、目覚めるまでには至らなかった。

 早く、楽にしてやりたかった。
 金眼と言う大きすぎる重荷を背負わせて、彼女を猫族の犠牲にしてしまった。
 幽谷も封蘭も、もう二度と苦しんで欲しくなかった。

 今苦痛に喘ぐ彼女の顔が、痛くて痛くてたまらない。
 早く、早く治って欲しい。

 願わくは、悪化せずに、すぐに笑いかけて欲しかった。



‡‡‡




「良いから早く来いってば! こっちは非常事態なんだからなー!」

「いたたた! ちょっと、分かりましたから、分かりましたから髪を引っ張らないで下さい! 私の髪はいつも家内に整えてもらっているんですよっ」


 騒々しい足音と言い合いに、劉備は私室を出る。
 すると、扉の方から張飛と蘇双が、見慣れた男を連れて大股にこちらに歩いているではないか。

 扉を開けたまま劉備が男を凝視していると、蘇双が劉備の前に立って部屋を覗き込んだ。


「幽谷の具合はどうですか」

「……あ、ああ。まだ、目を覚まさないんだ。ずっと苦しそうに眠っている」


 幽谷を見やって眦を下げる劉備を見上げ、蘇双は張飛に頭を鷲掴みにされている男を見やって、責め立てるように早口に言う。


「医学の心得があるんだろ。急病人が入るから早くやって」

「……皆さん、年寄りはもっと大事に扱って下さい。本当にもう……城に行こうとしたらいきなり捕まって強制連行って。あんまりではないですか」


 ぶつぶつと文句を垂れる男――――地仙恒浪牙に苦笑し、張飛達の代わりに謝罪する。
 けれど幽谷の状態を伝えると、彼は心得ているとばかりに笑って劉備の肩を叩き部屋に入った。
 幽谷の身体を診察するから部屋の外で待っていてくれと言われ、三人は神妙に従った。

 それから暫くして、老女も戻ってくる。薬を分けてもらえたらしいが、恒浪牙が来たことを知るやほっとしたように薬を懐に入れた。ならばこの薬の必要は無い、後で返しに行くと、申し訳なさに頭を下げる劉備に首を横に振って見せた。


「さて、この老いた手でも何か手伝えることはありませんかねぇ」

『ああ、そろそろ終わりますから、水を一杯ご用意お願いします』


 老女が嗄れた声をかけると間延びした返答。
 彼女は了承し、恒浪牙が帰った後で幽谷の身体を拭くからと張飛に水を汲んでくるように言った。

 張飛は即座に家を飛び出した。……体よく追い出されたことにも気付かずに。


「これで五月蠅い奴は暫くはいないね、婆さん」

「ああ。起きている時くらい静かにしていてもらいたいからねぇ」

「いやぁ、助かります」


 扉を開くと同時にへらりとのんびりとした笑みを覗かせる。
 老女が一旦水を用意しに退がると、恒浪牙がを劉備を部屋に招き入れた。蘇双も誘われたが、張飛が早く戻ってきた時の為に外で待機しておくとのことだった。

 寝台に横たわっていた幽谷は、目を開けていた。上体は起こしてはいないが、色違いの双眸で側に立った劉備を申し訳なさそうに見上げる。
 口から漏れた言葉は、掠れて聞き取りにくかった。


「……すみません。とんだ、ご迷惑を」

「ううん。気にしないで。今はとにかく、ゆっくり休むと良い」


 頭を撫でてやると、気持ち良さそうに目を伏せる。


「――――ああ、ありがとうございます。幽谷、眠る前に薬を飲んで下さい」


 老女が届けに来た水を受け取った恒浪牙が、劉備に薬と一緒に手渡す。「よろしくお願いします」と頭を下げて、彼は老女と共に部屋を出た。
 恒浪牙が幽谷や封蘭の器の点検以外にこちらに来ることは滅多に無い。何か、城に用事があったのかもしれない。それを思うとこちらに無理矢理連れてきたことが申し訳なかった。また後日礼と詫びをしよう。

 幽谷の上体を助け起こし、薬と水を持たせる。飲ませようかと申し出たけれど、自分で飲めると彼女は水を一口飲んで見せた。ちゃんと嚥下出来るようだ。


「……あの地仙に借りを作ったのは、癪ですが」


 そう言って、彼女は渋々と薬を口に含んだ。水で一息に飲み下す。苦そうだ。


「効き目は確かだよ」

「そうですね。……本当に癪ですが」

「幽谷」


 恒浪牙に助けられたのが、余程気に食わないらしかった。
 赤い顔を不満そうに歪めて幽谷は寝台に横になる。

 老女は家の中で恒浪牙と話をしているのだろう。微かに話し声が聞こえる。
 薬を貰っているかもしれない。後で、老女に確認しておこうか。


「幽谷。何か他に食べたい物とかあるかな。勿論、物によっては食べさせられないと思うけれど、果実くらいなら、」

「いえ、大丈夫です。何かを腹に入れると、戻してしまいそうですので」


 やんわりと断って、幽谷は小さく謝罪する。劉備の厚意を拒んでしまうことに罪悪感を抱かずとも良いのに。
 謝るのはむしろ、こちらの方だ。

 劉備は首を左右に振って幽谷の額から頭頂へと降りるように撫でた。


「ごめん。幽谷のこと、守ると決めたのに」


 幽谷は目を細めて、劉備に手を伸ばした。ふらふらと危なげなそれを握ると、満足そうに笑う。
 それを確認するように握り返して彼女は穏やかに告げた。


「これだけで……十分、私はあなたに守られていますよ」


 熱に浮かされながらも、優しく、とろけるような笑みで彼女はそう言った。

 劉備は瞠目する。ややあって、泣きそうに表情が崩れた。
 握った手に頬を寄せると、彼女は人差し指を動かして、そっと撫でる。

 その感覚に劉備は小さく謝辞を口にした。



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