――――影がいた。
 影は泣いていた。月光に青白く照らされた無表情に、はらはらと目から熱い水を流していく。

 無言で泣き続ける影は馬乗りになっている。馬乗りになって太い首を絞めている。

 それは隻眼の男だった。
 彼は驚いた様子も、恐れる様子も無く、影を真っ直ぐに見据えている。
 絞殺されかけている状態であるにも関わらず落ち着き払った姿は異様だ。

 が、更に異様なのは。


「ハイドリッヒが憎いのならば、好きにすると良い」


 そう、迷い気も無く言い放ったことだ。



‡‡‡




 女だてらに副将軍の地位に就いていると、何かと嫌がらせを受ける。
 二十代に入ったばかりであることも勿論あるだろうが、それよりも何よりも、庶民から成り上がった娘が自分達の上に立っているのが余程不満と見える。
 だが、私には至極どうでも良い些末な問題だ。
 そんな下らない妬心(としん)に構う程私は暇ではない。
 私にはやるべきことがある。幼い頃から心に深く刻んだ使命がある。それを果たす為に今まで私は生きてきたのだ。今更、誰にも妨害される訳にはいかない。

 失敗すれば、今までの人生が全て水の泡。
 何も出来ずに死に逝くだけだなんて、そんなことが許される筈がないのだ。両親に詫びを入れる資格すらない。
 絶対に、私は仕損じない。
 必ず……必ず――――。


「○○。軍備を調整したい。良いか」

「……はっ。では、現在の軍備についての資料をお持ち致します故に」


――――ファザーン第二王子、アルフレート。
 私は上司と仰ぐ彼を、彼の弟を、彼の母親を、彼の一族を。


 この手で殺さねばならないのだ。



‡‡‡




 私が、この忌まわしい男が統括するファザーン軍に入ったのは復讐の為だ。
 私の家は代々彼の母の家――――ハイドリッヒ家に仕えていた。絶対的な忠誠を誓っていた◎◎家は、主人にのみ従い、主人の意志が含まれないとあらば先王の命令にすら絶対に従わなかった。

 されども。
 ハイドリッヒ家にとっては、比類無き忠義も何の価値も無かったと言うのか。

 彼らは無実の罪を◎◎家に押しつけて問答無用にお家断絶。辛うじて私はカトライアに隠居した父の師の元へと逃げ延びた。ただ、幼かった私とて容赦なく殺されかけ、おかげで片足を失ってしまっているのだけれど。

 私を父の師のもとまで送り届けてくれた猛獣使いと音楽家の夫婦の計らいでカトライアで暮らすようになった私は、偽名を使って隠れながら、死に物狂いで武を高めた。
 エーベルよりも強く、アルフレートよりも強く、アンゲリカよりも強く――――ハイドリッヒ家そのものを壊せるように、貪欲に強さを求めた。
 失った足については父の師の伝(つて)で腕の良い職人に義足を作らせたから、今ではすっかり馴染んで走ることも容易だ。ただ、やはり健常者には劣るので、基本的に拳銃や弓で前衛をカバーしたり、軍師として頭を使ったりしている。それで、副将軍にまで上り詰めたのだ。

 小さい頃からの私は、醜い憎悪一色だった。
 復讐以外のことは頭から水のように流れ落ちて、師が哀れむのすら見ないフリ気付かないフリを一貫した。

 そして、喜怒哀楽という人らしい感情も過去に捨て去って……私は軍に仕官した。
 師すらも圧倒する程の力を会得した私は、順調に昇進し今の地位にまで上り詰めた。
 ようやっと手に入れたアルフレートの補佐役、副将軍の地位。
 絶対に、失敗はしない。
 綿密に練り上げて、必ず命を屠(ほふ)る。

 かつて◎◎家にしたように、ハイドリッヒ家を断絶してやるのだ。


「……父様。もうじき、私も参ります。仇の首を全て携えて」


 資料を集めた私は、一度自分の執務室へと戻った。アルフレートと違って軍師を任される私は、書類整理や駐屯地からの報告に目を通して編成を変えたり物資を手配したりと、事務的な仕事を任されることも多い。
 私は机の側に立てかけられた長剣に向かって十字を切り、頭を下げた。
 柄に巻き付けられた包帯は茶色くごわごわに固まっており、本来の色が残った場所など一切無い。傷だらけの鞘にも血が染み込んでいるそれは、一見おどろおどろしい雰囲気で生きている他者を拒絶する。

 その長剣は、唯一私が見つけ出せた父の遺品だった。
 長剣使いとしてベルント卿と並び賞された武人だった父の愛刀。昔の見る影など、辛うじて見える程度だ。昔はあんなにも強くも凛々しい姿が誇りの名剣であったというのに。


「もっと待てばきっと……彼に隙が出来る。だからその時に彼を殺します。そして捕らえられる前に、ハイドリッヒを壊す」


 それが私の果たすべき使命なのだ。
 己に言い聞かせ、私は私室を出た。

 そして、資料を携えてアルフレートのもとへと向かう。

 副将軍の位をいただく私の執務室は、鍛錬場から程近い。
 大股に歩いて鍛錬場に入れば、アルフレートで一人で鍛錬を行っていた。
 兵士達の姿は何処にも無い。
 一瞬、罠かとも疑った。そんなことがある筈はないのだけれど。

 私が音を立てて歩み寄ると、アルフレートも気付き手を留めて汗を拭う。


「殿下。資料をお持ち致しました。一月前に武具の入れ替えを行った際、手配を任せた者に誤りがあったようで剣の数が極端に少なくなっております。また、南方の駐屯地にて馬の流行病が横行し、ほぼ壊滅状態であると報告が来ております。早急に対処しつつこちらも調整しておくべきかと」

「……そうか。馬の流行病は数十年前にも流行したものがあると聞いたが、同じものか?」

「正確には三十一年前の二月、同じく南方の地域で発生、後三ヶ月程で周囲の六町村での感染が確認。当時の駐屯地に管理させた馬も全滅、更には免疫力の弱い子供と老人への感染も認められています。今回もほぼ同一のものであるとし、駐屯兵の独断で範囲内の人間を全て別の町村に避難させております。なお、今のところ人間の感染は確認されておりません」

「では、駐屯地も後退させよう。対処法は、当時の記録と照らし合わせて判断する。また獣医にも指示を仰いでくれ。治療が可能ならば任せよう」

「当時の資料もここに。必要な箇所のみを揃えております」


 その資料だけを先に渡せば、彼は大きく頷いた。


「分かった。この件についてはマティアスやベルントにも意見を求めよう」

「はっ。念の為、当時の流行病に感染した人間の世話にあたった衛生兵を派遣しております。それに、三十一年前に比べて感染速度は非常に遅く、多少の猶予はあるかと」

「助かる。すまないな」

「いえ」


 これも、お前を殺す為だ。使命の為なら、何だって出来る。何だって耐えられる。
 心の中で返し、私は軍備についての資料を渡す。


「予算もすでに確認しております」

「ああ。では――――」



‡‡‡




「それでは、このように手配致します」

「頼む」


 私はアルフレートに一礼する。
 そしてその場を辞そうと軍備の資料を受け取ってきびすを返した。

 が、


「あ……○○」

「何でしょうか、殿下」


 足を止めて肩越しに振り返れば、彼は迷うように視線をさまよわせ、腕を組む。
 どう言おうか考えあぐねているようで、呼び止めておきながらのその態度に私は舌打ちした。勿論心の中で、だ。
 平素を装い身体を反転させて言葉を待つ。

 暫くすると、


「……良ければ、今度飲みにでも行かないか?」

「は?」

「あっ、いや! 勿論他の兵士達と共にだ。二人きり、という訳ではなくてだな……」


 顔を赤らめ慌てたように言い直す彼に、私は顔をしかめた。

 ……呆れた。私を飲みに誘うなんて。
 どうして気付かないのかしら、この男は。
 ハイドリッヒの女から生まれたくせに。


「生憎と、下戸でございます故に」

「そ、そうか……それはすまなかった」


 二人きりなら、考えるけれど。
 だって彼を殺せるもの。今は、彼の手には武器があるから駄目だけれど。

 まだ何か言いたげな彼に怪訝に眉根を寄せた。


「まだ何か」

「……いや、すまない。お前が昔懇意にしていた少女とよく似ているものだから、それがどうも気になってしまってしまうんだ」


 ざわり。
 全身の毛が粟立った。

 この男……今何て言った?

 昔懇意にしていた少女、ですって……?


「そうでございますか。では、私はこれにて」


 私は足早に鍛錬場を出て、部屋へ飛び込む。
 今の私の支え、父の長剣を抱き締めて興奮に乱れた呼吸を整えた。

 昔懇意にしていた?

 ……。

 ……ふざけるな。

 ふざけるな。

 ふざけるな。


「ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな……!!」


 全身が昂揚して暑い。
 これは怒りだ。憎悪に歪みどす黒く汚れた粘着質な憤怒だ。

 嗚呼、殺したい!!
 今すぐあいつを殺したい!
 騒ぎ出した復讐心を、必死に抑え込む。感情で動いてはならない。確実に失敗する。

 けれども、私の理性を追い詰めようとでもしているのか、脳裏に過去の映像が流れるのだ。


 両親が満月の下で強靱に倒れた日――――日の下で私に笑いかけた灰色の髪をした年上の少年の顔が。


「絶対に、殺してやる……」


 けれど今はその時期ではないのだ。
 やるなら確実に。復讐に捕らわれた魔物となっても、私は人間としての知能を持っている。知能を使ってハイドリッヒ家そのものを破壊するのだ。

 そして、堂々と両親に会いに逝く。

 私は長剣に頬摺りし、目を伏せた。
 ……私には絶対に果たさなければならない使命がある。
 憎悪にまみれた私は、昔の私とは違う。満月の下で昔の私は死んだのだ。

 だから。

 だから。

 ……だから。


 この胸を突き刺す痛みは、憎悪が膨れ上がりすぎて許容量を越えかけている、それだけなのだ。


 憎悪以外の感情を、私は忘れてしまっているのだから。
 有り得ない。絶対に、有り得ない。

 《そんなこと》は、有り得ないのだ。



‡‡‡




 影は泣き続ける。何も言わずに、ただただ泣き続ける。
 どうして自分が泣くのか分かっていないだろう。涙など、遠い昔に失っていた筈なのだから。

 そも、男の首を掴んだ両手がさほどの力も込められていないことなどにも、気付いていない。


「殺せ」

「……」

「ハイドリッヒが◎◎家にしたことは知っている。それでお前の気が晴れるなら、喜んで差し出そう」


――――男はこの時、気が狂っていたのだろうか。
 何かに必死になって、けれども冷静に、容易に言い放つ。簡単に己の命を影へと与えたのだ。……もう、己一人の命でないことを失念して。

 影は泣き続ける。
 やはり、無言か――――否。


「……え、して」


 返して。
 返して。
 返して。
 譫言(うわごと)のように彼女は繰り返す。

 男が影の顔に手を伸ばした、その時だ。


「《昔》を、返して」


 彼女は男の首から手を離し、逃げるように寝台を飛び降りた。

 男はそれを逃さなかった。
 細い腕を掴み引き寄せる――――……。



 ややあって、慟哭が上がった。



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