その丘には、孤独の桃があった。

 中国に於いて、桃は樹木を仙木、果実を仙果と呼ばれ、遙か古より邪気を払い不老長寿をもたらす神聖な植物とされた。
 桃の樹木から作られた矢は悪鬼を退け、枝を畑に挿せば虫除けのまじないを成す。
 桃の実は長寿を表し、祝い事にはこれを模した菓子、壽桃(ショウタオ)を食べる習慣がある。

 丘の片隅にぽつねんと佇むその桃の木とて、百年程前まではそうした尊い存在として付近の村に『おひとつ様』と慕われ丁重に世話されてきた。

――――されども、今はもうこの丘に人の足が伸びることは無い。


 神仙より力を賜った桃の木ですら、大妖の災厄から村人達を守ることは叶わなかったのだ。



‡‡‡




 鬱蒼と生い茂る森の中、麗人が枝葉を踏み締めながら歩いていく。
 このじっとりと湿った森にはおよそ似つかわしくない彼は、迷う素振りも無く得物で草木を切り分けながら真っ直ぐ前進する。
 涼しい顔には疲れなど微塵も滲んでいない。まるで散歩するように、薄く笑みすら浮かべて日の光も僅かな森を進んだ。

 そして辿り着くのは、梢で作られた分厚い天井にぽっかりと開いた大きな穴から注がれる日光を浴びる、一本の桃の木。
 まるでその桃の木のみが太陽の恩恵を許されるかのように、その周囲は腐葉土が剥き出しになり、麗人の歩行を阻んだ鬱陶しくも図々しい雑草は全く生えていない。
 隔離されているように見えるけれど、麗人にはそれが当然の姿のように思えた。

 ただ生えて枝葉を伸ばすだけの木々達とは違う。その桃の木は森厳で気高く、木々達ですら近寄ることを憚(はばか)るのだ。

 下卑た俗物が近寄るなど絶対にあってはならない神聖な領域に、麗人は恭しく一礼して得物を収めながら桃の木に近寄った。

 すると、彼の身体を撫でるように風が生じる。

 踊らされた髪が目元を打ち反射的に目を閉じた一瞬の間の出来事だった。
 瞼を押し上げれば桃の木の根本に女性が立っている。
 一切の装飾の無い薄紅色の衣を纏い、緑の黒髪をうなじで結い膝の辺りまで流した、眉目秀麗――――否、如何な言葉を尽くしても形容し難い甘い美貌の女性である。嬉しげに靨(えくぼ)を作って笑う。

 常人であればその笑みだけでも卒倒してしまいそうな彼女に、しかし麗人も微笑を返して手を伸ばした。

 女性は一歩踏み出して麗人の胸に飛び込んだ。背中に両腕を回し、彼の匂いを肺一杯に吸い込んだ。そして、ころころと笑うのだ。


「お待ち申し上げておりました、我が君、張遼様」


 まるで甘い菓子のような魅惑的で愛らしい声に、張遼と呼ばれた麗人は小さく頷いた。


「私も、あなたにお会いしたく。ようやっと、来ることが出来ました」

「嬉しい。我が君」


 若葉を思わせる緑の双眸が和み、しなやかで細い手が張遼の頬を撫でた。
 彼女が首を僅かに傾けて背伸びしたのを合図に張遼も身を屈めて彼女の真っ赤に熟れた唇に己のそれを這わせる。

 双方、すぐに離れようとしなかった。
 離れていた時間の空虚を埋めるように、満足の行くまで相手の唇を逃さなかった。女性が息苦しさに口を離さば即座に張遼が追いかけて塞ぐ。
 女性の唇は、甘い。桃のような味と香りがして、くらくらする。
 自分が自分でなくなってしまいそうなその危うい感覚すら愛おしく、張遼は逃すまいと彼女の穢れを知らない華奢な身体を閉じ込める。

 邪魔する者は一人もいなかった。
 それ故に思う存分相手を堪能出来るし、自分の中が満たされていく心地に酔いしれることが出来た。

 名残惜しげに互いの唇が離れると、張遼は女性を解放し近くの岩へと座らせる。己もその隣に腰を下ろして小さな手を握った。指を絡ませる。


「○○さん。長らくここに来ることが出来ず、まことに申し訳ございません」

「もう許します。我が君が私の孤独を埋めて下さいましたから」


 口元に軽く握った拳を当て小さく笑う彼女は、張遼にすり寄って「良かった」と吐息混じりに独白した。


「今回も、我が君は生きてここにいらして下さいました」


 だから、良かった。
 心底安堵する彼女の額に口付けて、張遼は頷いた。

 女性――――○○は、この桃の木から離れられない。
 故に張遼がこの場所を訪れ一時の甘い逢瀬を限界まで過ごすのである。
 彼女はいつも孤独だ。
 張遼がいなければ誰も話し相手はいない。尊い彼女には、獣達も畏(おそ)れて近寄らないのだ。
 霊験灼(あらた)かな桃の実を採取する人間も、遙か昔に滅んだ。
 今の彼女の心の拠り所は張遼だけ。張遼だけを愛し、彼の到来を待ち続ける。

 孤独に耐えながら。

 ○○を呼んで口付ければ、○○も喜んで享受する。
 長い睫で影を作って憂いを帯びた美しい顔で、張遼の愛を吸収していく。木が養分を土壌から吸い上げる如く。
 張遼の想いを生きる糧とする○○がたまらなく愛おしい。
 愛情を与えすぎていつか頓死してしまうのではないか――――そんな馬鹿馬鹿しい懸念すら真剣に抱いてしまう自分は、剰(あま)りに深く○○の領域に踏み込みすぎた。

 彼女に魅入られた張遼は、もう手遅れだ。
 張遼無しで○○が生きていけないように、張遼もまた○○がいなければこの世の全てが無彩色となる。

 ○○に囚われたことは最上の幸せだ。
 己を作った主が消えた今、彼女だけで自分の世界が成り立っている。

 なんて、素晴らしいことだろうか。


「我が君……」

「今日は、何をお話ししましょうか。色んな方々から沢山の興味深い話をいただきました。多すぎて、どれからお話しすれば良いか困ってしまいました」

「我が君の最も面白いと思われるお話をお聞かせ下さいな」


 ○○は張遼を上目遣いに見上げて話を乞う。

 張遼はそれならば、と最も興味深かった猫族の少年の失敗談を記憶から手繰り寄せた。



‡‡‡




 夕暮れに桃の木が橙を帯び始めた頃。
 張遼は天を仰ぎ、至極残念そうに吐息を漏らした。


「ああ……もう、帰らなければなりません」


 腰を上げると、○○もほうと吐息を漏らし、目を伏せた。
 悲しげな顔は一瞬だけ。すぐに気を取り直して張遼に微笑みかけた。

 ○○も立ち上がって張遼の手を握り、「またいらして下さいましね」と。
 当然、張遼は頷いた。ここに来ないなど有り得ない。○○は、張遼にとって掛け替えの無い唯一無二、絶対的な存在なのだから。

 ここは、二人だけの尊い場所。
 誰にもこの神聖で甘ったるい領域に入ることは許されない。

 この弱くも美しく、荘厳たる○○を守るのは自分だけだ。


「今度は、さほど間を空けずに参ります。必ず」

「はい。ありがとうございます。そのお言葉があれば、またあなたをここで待つことが出来ますわ」


 目元を和ませて、○○は首を傾けて背伸びした。

 誘う仕草に、張遼は彼女の頭を撫でてそっと顔を寄せた。

 甘い桃の香りが、鼻腔を擽る――――……。



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