「○○ー!!」


 関羽は周囲に広がる広大な平原を見はるかし、口の左右に手を当てて声を張り上げた。彼女の高い声は良く通る。
 強い風に掻き乱される髪を押さえつけ、眉根を寄せる。端正な顔は不機嫌一色だ。


「あの子ったら、本当にもう……何処に行ったのよ」


 おおらかな性格に竹を割ったような可愛い茶目っ気を持った親友へ恨み言を漏らし、関羽は歩き出す。大股に前進しながら求める姿を絶対に見逃すまいととにかく周囲に気を配った。

 そして――――川の畔に座り込む彼女を見つけるのだ。


「○○!!」


 大声で呼び彼女は駆け出す。吹き付ける風を裂いて疾駆し、親友の後ろに立った。


「もう、○○! またふらふらと何処かに行っちゃうんだから……。外を歩く時は誰かと一緒じゃないと駄目じゃない」


 幼子を叱りつけるように口調厳しく言うが、彼女は全くの無反応。座り込んだまま関羽を振り返ろうとしない。
 関羽は怪訝に眉根を寄せて○○の隣に座った。
 顔を覗き込み――――口端をひきつらせる。


 ○○は、それはもう気持ち良さそうに眠っていた。



‡‡‡




 ○○は、極度の方向音痴である。
 生まれたその時から暮らしていた幽州の隠れ里でさえ、彼女は毎日道に迷っては《うっかり》森に入って、《うっかり》人里近くに出て――――周りの苦労は筆舌に尽くし難い。
 甚(はなは)だしさに自覚しても良いだろうに、残念ながら彼女は今に至っても完全な無自覚である。己が類を見ない方向音痴であることを一向に認めようとしない。

 関羽がなるべく側にいようとは思うのだけれど……目を離した隙にふらりとはぐれてしまうことも少なくない。これはもう、天性の才だ。何を思って天がそんな損しか生じない才能を○○に与えたのかは皆目分からないけれど。

 方向音痴以外に目立った取り柄は無いけれども、関羽にとっては自分を最初に受け入れてくれた、一番初めの友達でもあった。劉備を関羽のもとに連れてきたのも彼女だ。
 関羽に対して何の偏見も持たなかった○○。関羽の卑屈な態度ですら天然でグニャグニャにしてしまう彼女は、関羽にとって大きな存在だった。神にも等しい――――そんな仰々しい言葉ですら、彼女にとっては過言ではなかった。

 そんなにも大切な親友なのだけれど――――。
 起こして早々


「あ、お早う〜、関羽。今日はねぇ、ぽかぽかしてて気持ちが良いんだぁ」


 まったりとした声音に、もう怒る気力も起こらない。
 劉備を相手にしていると言っても遜色ない、何があっても自分の調子を維持し続ける○○に、関羽は吐息混じりに彼女の名前を呼んだ。

 しかし、ぽやぽやとたんぽぽの綿毛を彷彿とさせる彼女は関羽が何に機嫌を害しているのは全く分かっていない。
 だがそれもいつものことだ。


「どうかした?」

「……もう良いわ」


 関羽は眉間を押さえて緩くかぶりを振り、空を仰いだ。強風にいつもより動きの速い雲を目で追って気持ちを落ち着かせ、改めて○○に視線を戻す。


「帰りましょう、こんなに遠くに一人でいたら危険だわ」

「えー」

「『えー』じゃないわ。劉備みたいな声を出さないの」


 これで、関羽と同い年なのだ。
 実は劉備と同じ血筋なんじゃないかと疑ってしまう程に似ている。家系を遡っても実際は何の関連も無いのだけれども。
 関羽は両手を腰に当て駄目だとはっきり告げた。

 途端に○○は緑の床に仰向けに寝転がる。大の字になって唇を尖らせた。


「関羽も寝ようよぉ」

「駄目よ。無防備に寝ていたところに人間が来たら……」


 不満そうに○○は関羽を見上げ、渋々と身体を起こす。のっそりと立ち上がって服に付いた草や小さな虫を払い落とした。
 むん、と胸を張って頬を膨らませる。○○なりに怒っていると主張しているのだろう。だが剰(あま)りに子供っぽいので全く怖くもないし、それ以前に怒っている風には到底見えなかった。

 関羽は子供な親友を宥めるように頭を撫で、手を引いて歩き出した。
 そこから始まるのは小言だ。○○に対する時の関羽は、自覚しない部分に確かな母性があった。彼女の無事を思う剰り、どうしても○○に説教をしてしまう。
 子供扱いされるのに不満を持つ彼女が、しつこい小言を嫌がることは誰よりも分かっている。けれど、どうも止められない。

 小言半ばではっとして○○を振り返ると、案の定だ。
 不機嫌が濃厚に顔に滲み出ている。
 関羽はしまったと口を噤んだ。こうなった彼女は、ざっと二日は口を利いてくれない。


「あ、あの、○○?」

「……」


 無視、である。
 関羽は前に視線を戻し唇を歪めた。ああ、またやってしまった。

 どうしよう。こうなった○○は、何をしても機嫌を良くしてはくれないし……。
 折角、また一緒に暮らせるようになっているのに。

 幽州の隠れ里に残された○○が関羽達の無事を誰よりも強く願っていたのは彼女の母親から聞いて知っている。関羽達がいない間、どれだけ寂しかったか、不安だったか――――それを思うと本当に申し訳なく思う。
 しつこくなく、○○の機嫌を悪くさせないような小言の言い方を教えて欲しかった。

 自分に呆れて嘆息を漏らすと、不意にぼそりと○○が呟いた。


「……お昼寝」

「え?」

「前みたいに一緒にお昼寝してくれたら、許す」


 再び振り返った○○は、依然不機嫌そうだ。
 けれどもそんなことを言うのは初めてで、関羽は許してもらえることに即座に頷いた。

 すると、彼女は口角を弛める。ほっとしたように表情をとろけさせ、目元を和ませた。


「じゃあ、許してあげる」


 関羽の手を振り払ってその手首を掴み、○○は走り出す。
 ○○の手は、痛いくらいに関羽の手首を締め付けた。
 が、それは力を込めることで関羽の感触を確かめているように思えて、嫌な風には思えない。

 きっと、村に置いて行かれて寂しかったのだろう。
 それがこんな風に無意識のうちに現れているのだとすれば――――。
 関羽は唇を引き結び、○○を追い越して村とは違う方向へ走り出した。


「へ? 関羽?」


 素っ頓狂な声を出す親友に、関羽は微笑む。


「こっちに綺麗な花畑があるの。村に帰る前にそっちに寄っていきましょうっ」


 そう持ちかけると、○○の顔は格段に晴れ渡った。


「うんっ!」


 心底嬉しそうな、花を咲かせたたんぽぽのような笑顔に、関羽も胸にじんわりと温かなものが広がっていくのを感じた。
 ほんの少しだけ擽ったくて、小さく首をすくめた。



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