夏侯惇が気を利かせて、一日だけ関羽と共に猫族のもとに滞在することを許してくれた。
 共存すると言っても、仲間意識の強い猫族は城下の中でも一部を借りて暮らしている。勿論人間の住民も何の躊躇いも無く訪れては井戸端会議に花を咲かせたり、あちこちで遊び回ったり、囲碁に興じたりして、景色に馴染んでいた。
 それだけの状態に整えられたのも、曹操の計らいと言うよりは、相互の努力の賜物だ。

 幽谷は関羽と夏侯惇に連れられ、久方振りの猫族のもとへと戻る。


「幽谷! 幽谷じゃねぇか!」


 一番に気付いたのは、近くで農具を担いで運んでいた猫族の男でる。彼は喜色満面の笑みを浮かべて農具を近くの家屋に立てかけてこちらに駆け寄ってきた。村の皆に聞こえるように大音声で幽谷の訪問を知らせた。
 そこまでしなくても、と焦ったのも一瞬。みるみる猫族が現れて男と似たような笑みを咲かせて近付いてくる。
 皆の反応は大袈裟だと苦笑していると、外で遊んでいたらしい子供達も幽谷に勢い良く抱きついてくる。勢いに負けて後ろに倒れかけたのを、夏侯惇が支えてくれた。


「ありがとうございます、夏侯惇殿」

「いや。では俺は城に戻る。明日の朝に迎えに来るからな」

「分かりました」


 城下から城への道程は単純で迷いようも無いし、それ程時間がかかる訳でもない。

 けれども夏侯惇は戻ってきてから、関羽と一緒になって幽谷に過保護な傾向にあった。今の時期寒暖の差が激しく体調を崩しやすいというのもあるが、何より病気一つで幽谷の器が壊れてしまう可能性があるから気を付けるようにと恒浪牙にキツく言われているからだ。
 幽谷自身も己の健康面には注意を払うようにしているのだからそこまで過保護にならずとも良いのだ。夏侯惇は多忙の身の上であり、無用な懸念を抱けば彼の方が体調を崩しかねない。

 彼の身体を気遣って、何度かやんわりと言っても頭の堅い彼は全く聞き入れてくれなかった。
 四六時中側にいる訳ではないのだけれど、彼の前で一度でもくしゃみをすると途端に寝ろ薬を飲めと騒ぎ出す。関羽もいる時などはもう、収拾がつかない。

 ままに様子を見に来る曹操に一度だけ、愚痴をこぼしたこともあるくらいだ。
 恒浪牙の言は確かに不穏ではあれど、夏侯惇も関羽も、本当に深刻に受け止め過ぎているのだ。


「……相変わらず、過保護なんだね。あいつ」

「……」


 蘇双が隣に並んで、呆れた様子でぼそりと呟く。

 幽谷は無言で頷いた。
 蘇双に愚痴を漏らしたことは無いが、鍛錬の際に彼の過保護さを目にしている。
 労(いたわ)るように背中を軽く叩く彼に、幽谷は頭を下げて謝意を示した。


「封蘭が病弱だから、余計に心配なんだろうね」

「……お気遣い下さるのは有り難いのですが、私とて恒浪牙に言われて体調管理は以前より徹底しているつもりです」

「信用されてないんだろうね。以前のことがあるから」


 言い返せない。
 幽谷は吐息をこぼし、抱きつく少女の頭を撫で天を仰いだ。



‡‡‡




「幽谷、元気そうで安心したぞ」

「ご無沙汰しております。世平様」


 拱手(きょうしゅ)すると、彼は幽谷の頭をわしわしと掻き混ぜるように撫でてくる。
 いつになく乱雑だけれど、いつになく弛んだ彼の顔に、幽谷は目元を和ませた。世平が、自分の訪問をこんなにも喜んでくれたのが嬉しかった。


「今日は関羽もお前もこっちに泊まっていくんだろう。今夜は猫族で宴を開くことになってる」

「ありがとうございます。あの、封蘭は?」


 家屋の奥を一瞥し、問いかける。
 世平は肩をすくめた。


「あいつなら、近くの山に行ってる。劉備様も一緒だ。まだ、俺達が怖いらしいな。張飛にも過剰に怯えなくなっているし、少しずつ慣れているのは確かなんだが、未だに大勢の猫族を見ると嫌な記憶がぶり返しちまうらしい。精々片手で数えられる程度が限界だな」

「左様でございますか」


 それでも、封蘭にしてみれば大きな前進なのだろう。
 封蘭の心の傷は誰にも予想し得ぬ程に深いのだ。時間をかけて気長に待ってやるしか無い。

 彼女自身の意志で少しでも前進してくれるのなら、それだけで十分嬉しいことだ。


「お前の部屋はちゃんと用意してある。今日はゆっくしてろ」


 幽谷の頭を軽く叩き、世平は顎で家屋の奥を指した。
 帰ってくると信じて用意していたのだろう。
 改めて、彼らの仲間でいられていることを身に感じてとても嬉しかった。
 猫族はなんて優しいのだろう。彼らに巡り会えた僥倖を、心より有り難く思う。

 世平に案内されて入った部屋は、猫族の隠れ里での彼女の部屋と良く似ていた。そのように調度品を揃えてくれたのだろう。それもあって初めて入る部屋なのに、柔らかな懐かしさを感じた。

 世平は宴の準備があるからと猫族の集会所へと向かった。世平に会う前に猫族の女性達に呼ばれて別れた関羽も、その準備の手伝いを乞われたのだろう。
 自分も手伝うべきなのかもしれないけれど、今は世平の言葉に甘えてこの旧懐の念に浸っていたかった。そうして、本当にこの世界に戻ってきたことを実感したかった。

 寝台に座り、横たわる。城の上質すぎる寝台よりも身に良く馴染んだ感触に、幽谷は深く安堵し身体を弛緩させた。


「本当に……良かった」


 戻ってこれて。
 また、彼らと生きていることが出来る。

 自分の存在は決して許されたものではない。
 されども。
 気高くも自由な猫族と共に生きていける《幽谷》という自分が、とても誇らしかった。



‡‡‡




 心安らぎすぎて、いつの間にか眠っていた幽谷は、関羽に起こされ集会所に誘われた。
 宴が始まるのかと外を確認すると、空はすでに日の光を失い、闇に包まれていた。それでも世界を塗り潰す黒に恐怖でも不安でもなく安らぎを感じるのは、猫族のもとにいるからなのだろう。……と言ってしまえば、夏侯惇が怒ってしまいそうだ。

 関羽に連れられて集会所を訪れると、入り口付近で待機していた張飛と関定、そして蘇双が二人に片手を振った。


「おぉーい、幽谷ー!」

「早く来いよー!! 腹減ったー!」


 張飛らしい言葉に、幽谷は小さく笑う。

 彼や関定に挨拶して、蘇双に導かれるままに中に入れば、関羽と幽谷の訪問を喜ぶ猫族達が騒ぎ始める。

 二人が座すれば宴は始まる。

 懐かしい料理の匂いに、昔は何度も聞いていた猫族達のはしゃぐ声。
 宴に興じる彼らを見渡し、幽谷はずっと笑みが浮かびっ放しだった。
 今までで一番楽しく、嬉しい宴だ。

 早くも酒に酔った世平も、張飛と関定が大声で笑って蘇双から制裁を受けるのも、猫族の若者達が飲み比べをしてそれを女性達が黄色い声で囃し立てるのも。
 何もかもが懐かしかった。

 勧められた酒を口にしようとすると、すかさず関羽が取り上げて茶を持たされる。
 それを蘇双が咎めて張飛が関羽の味方をし、関定が代わりに料理を勧めてくれて。
 趙雲が村一番の蟒蛇(うわばみ)と飲み比べを始めたのを眺めながら、幽谷は胸を擽る歓喜を抑えようと、関定達の会話にも、積極的に参加した。それが、関羽達を喜ばせることも知らずに。

――――けれども、彼女はこの中にいるべき筈の者達がいないことに気付いていた。


 劉備と、封蘭。
 彼らは未だに山にいるのだろうか。



‡‡‡




「封蘭。だいぶ冷えてきた。このままいると身体を壊してしまうよ」

「先に戻ってて良いよ」


 けんもほろろに返す封蘭に劉備は苦笑を滲ませた。

 二人は日が暮れた時点で許昌に戻っていた。
 けれども宴があるからと、封蘭は遠慮して井戸の縁に腰掛けて宴が終わるのを待っていた。

 劉備は、その付き添いである。彼女を一人にするのは心配だった。

 封蘭が宴に参加しないのは、恐怖心と猫族に対する遠慮があるから。自分が行けば空気は重くなると思って、敢えて宴に参加しないでいるのだ。実際は、そんなことなど無いのだけれど。

 隣に腰掛けて満月を見上げる劉備は、ふと、背後を見て微笑んだ。

 家屋の側に立っていた女性に「こんばんは」と親しげに声をかける。
 その女性は、青と赤の目をしていた。冷えるからか、大きめの外套を羽織っている。


「近くの山にいらっしゃると聞いておりましたが、城下に戻っていらしたのですね」


 安堵した風情で微笑む彼女―――――幽谷に、封蘭はしかし振り返りはしない。まるで、最初から彼女が来ることなど分かっていたのかのようだ。
 幽谷は劉備に会釈して封蘭の隣に腰掛けた。

 封蘭は遠くの地面を見つめたまま、何も言わない。
 けれどもふと、小さくくしゃみをした。
 幽谷は封蘭の様子を見、外套を脱いだ。


「幽谷」


 劉備が咎めるように呼ぶと、彼女は微笑みで返して外套で己と封蘭の身体をすっぽりと覆った。最初からこのつもりだったのだ。
 苦笑いを浮かべて肩をすくめてみせる。

 封蘭が鼻を啜ったのに、幽谷は彼女の身体を抱き寄せた。
 彼女の頭を撫でながら目を伏せ、


「……改めて、感じました。私は、ちゃんとこの世界に戻ってこれたのだと」


 そう、独白するように言う。
 劉備は瞠目し、すぐに相好を崩した。


「……それじゃあ、改めて言おうかな」


 お帰り、幽谷。
 幽谷が劉備に顔を向けたのを見計らって、言う。

 彼女は緩く瞬きして、「はい」と破顔した。


「ただいま戻りました」


 と、そこで封蘭の身体に回した手に違和感を感じた。
 何かと視線を落とせば封蘭が手を重ねていた。

 何かを伝えるようにぎゅっと握る彼女に、顔がとろけていくような、そんな気がした。
 封蘭に顔を寄せると、彼女はぼそりと呟く。


「幽谷のお姉さん……酒臭い」


 照れ隠しだとは言わずもがな。
 幽谷は劉備と顔を見合わせ、小さく笑った。



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